「妾」(3)


本妻を妾宅におくという暴挙をやってのけた西条功喜は夜になってやってきた。

二人の女は特にいさかう風もなかった。
秀子のいましめが解かれていたが、由子の懐き方から言ってこの家に大人しくしていたのは間違いなさそうだ。
由子は秀子の膝の上で機嫌良くしていた。

「秀子、こうして会ってみれば可愛いものだろう?」
「……はい」

やはり本妻と妾が同居するのは奇妙な感じがする。
それでも、本来自分のものであった秀子を正しく自分のものとして眺めるのは気分が良い。
ひとまずここに置いておくことはできそうだ。

「おまえを早く西条家に戻したいのだが、厄介なことになってな。
父の莫迦な考えを諫めねばならぬ。
もう分かっただろうが、ヤス子は気の好い女だから、おまえも頑なにならずにしばらくここにいなさい」

秀子は由子を抱いて立ち上がった。
「ごゆっくり」
そう言って頭を下げると女中部屋に引っ込んでしまった。
ヤス子の女中を雇うように何度も言ったのに、女中ではなく本妻が使うことになってしまった。
秀子は夫と妾に気を遣ったのだろうか?

秀子が引っ込んでしまったので、ヤス子が側に来た。
ヤス子も本妻に気を遣っていたらしい。

「気兼ねかね?」
「そりゃ、本妻さんが妾に馴染むわけはないでしょう」
「俺にとってはどちらも大事なんだ。馴染んでくれればいいのに」
「全く、男ってのはバカだね。そんなうまい話があるわけないじゃないか」

一つ屋根の下に本妻と妾がいると、どちらとも仲良くできない。
もう一人の女の目が気になって何もできないのだった。
秀子を見張っておく信頼できる人間と、秀子を住まわせておくための家を急遽見つけねばなるまい。


秀子は女中部屋を占拠してしまった。
ヤス子が「客間に移って欲しい」と懇願したのだが、秀子は聞き入れなかった。
三日目になって漸く平熱に戻った秀子であるが、懐いている由子に「風邪」がうつった様子はない。

最初は
「西条の旦那と愛人さんのどっちが先に本妻さんの隠れ家をめっけるやら」
と面白がっていたヤス子なのだが、だんだん秀子と一緒になって心配し始めた。
「家さえ見つけたらこっちにも連絡してくれなきゃ、不安で仕方がない。それに引っ越しくらい手伝いますよ。ねえ?」
四日目にはそんなことも言いだし、秀子の方が戸惑ってしまう。
「私に逃げられたら困るのでしょう?」
「気を許して、一緒に市場に行ったら、はぐれてしまったと言いますよ。かなり真実みがあるでしょう?」

秀子をかくまったその日から、功喜は毎晩やってくる。
彼はヤス子には隠し事を一切しないと決めているのか、秀子の隠れ家のことまで話していた。
家を見つけるのはともかくとして、使用人の人選が難航しているらしい。
男であってはならないし、秀子より功喜に忠実でなければならない。

由子が眠くなってぐずぐず言い出すと、秀子が腕を伸ばして抱いた。
「本妻さん、そこまでしてくださらなくてもいいんですよ、子守じゃないんだから」
毎晩秀子が寝かし付けているので、ヤス子も恐縮している。
慌てて子どもを抱き取ろうとした。
「いえ、私も何だか疲れて。由子ちゃんと一緒に眠ってしまいますわ」
秀子は優しく言った。
実際に秀子は眠そうに見えた。
「そうですか……、申し訳ありません」
「おやすみなさい。ごゆっくり……」
秀子は由子を抱いて女中部屋に退がろうとした。
功喜が座ったまま秀子の袖を引いた。
「ヤス子、由子を寝かしてくれ」
夫の命令では二人とも従わないわけにはいかない。
ヤス子は秀子の腕から赤ん坊を受け取って隣室へ引っ込んだ。

功喜は立ち上がり、秀子を抱き上げた。
「何をなさいます?」
夫は秀子の問いに答えず、彼女を女中部屋に運び、布団の上に下ろした。
そのまま夫は妻の横に寝た。

「秀子、ここは女中部屋だ。ヤス子が困っている。明日は部屋を移れ」
「私……ここがいいのですわ。この家の主は粟本さんですし、私はお客でもありません」
「しかし、女中でもない」
「ええ。でもここが一番落ち着きます」
「落ち着くはずが無かろう。我が儘いっぱい育った女が」

秀子は目を伏せた。
我が儘いっぱいというのは、言われた通りだと思う。
「そんなこと仰らないで。ここにいさせて。ね……もう行ってくださいな。……粟本さんのところへ」
「おまえはばかだな」
夫は秀子を抱き寄せた。
秀子はどうしたわけか夫には決して逆らわないのだった。
夫の胸に頬を寄せたまま、彼女は寝息を立てていた。
「忘れるな。おまえは俺のものだ」

もとのところへ戻ると、ヤス子が待っていた。
「余程女中部屋が好きらしい」
「仕方有りませんね。ねえ、私思うんですけど、……本妻さんさえ良ければ、ここにいつまでいてもらってもかまわないんですよ」

功喜には「孝行息子」を感じる。
癒され、許されて、彼は自身を解放する
――母にして恋人――
ヤス子ははっきりと自覚している。

それでもいい、
母子でもいい、
ずっとこのままでかまわないと思うのだ。

妻になる気など全くなかった。
彼の妻は、やはり秀子だと思う。
反発し、怒り、それでも求めずにいられないくせに、何も分かっちゃいない。
秀子を失って、激しく怒り悲しんだ。
もう一度秀子を失ったら、彼が半狂乱になるのは間違いない。

だが、秀子を彼の手元に留める方が危険だ。
二人の死顔を見るような気がしてならない。
思い違いならそれでいいのだが、秀子を見るうちに想像が確信に変わっていくのだ。


松吾が秀子を迎えに来たのは五日目の朝だった。

「お世話になりました」
秀子は心から感謝していた。
「こちらこそ、すっかり子どもの面倒を見て頂いて。
さあ、兼ねてからの計画通り、私も市場に行って証拠をこさえましょう。もうみつかっちゃだめですよ」
母親の背中にくくりつけられた子どもが秀子の方に手を伸ばした。
その小さな手を軽く握り、別れの挨拶とした。

昨年末からタクシーを拾いやすくなった。
松吾が迷わずタクシーを止めた。
秀子が見つめるので
「病み上がりでしょう?」
松吾が彼女の瞳の質問に答えた。
松吾の家からいなくなった日は発熱していたからなのだった。
この人に四日も甘えていなかったのだ、やっと彼の元に戻れるのだ、と秀子は胸一杯の思いを抱いた。
喜び一杯の筈だが、怒り狂う夫をなだめねばならないヤス子を思うと、良心が痛んだ。

新しい家も長屋であった。
その殺風景な家の中に秀子を置くと、彼女はまるで美しい日本人形のようであった。
「私、ここに飾られていますわ」
秀子はぽつんと言葉を洩らした。
せっかく愛する男の元に戻れたのに、胸の内の一点の悲しみがジワジワと拡がっていった。

本当に私でいいのですか、松吾さん?
飾られているだけの私で……。


ヤス子から、市場で秀子とはぐれてしまったと聞き、混乱した。
なぜここまで考えがまとまらないか不思議に思うほど、様々な感情が交錯した。
といって、功喜にはヤス子を責める気はなかった。

「泊まっていきますか?」
「いや……きょうは帰る。このところ留守ばかりだったからな」
「そう……」
夫は早々に立ち上がった。

「秀子め。何という毒婦だ」

ヤス子はその場に立ちすくんだ。
功喜はそれに気付かず、玄関を出ていった。


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