「薄氷の幸せ」


秀子は家を守るための存在であり、流行の「恋愛」の対象ではない。
第一、秀子はそのような下品な女ではないと信じていた。

ヤス子が市場で秀子を逃がしたのは仕方のないことと思えた。
「同じ女ではないか」とでもいった幻想を抱いたのだろう。

ふと、秀子が残していった西洋人形が目に止まった。

そうか。
まだ、人形を抱いて嫁に来るような幼い女であった。
ひょっとすると、雅之はそういうつもりで秀子を選んだのかも知れない。
幼い彼女を、あらゆる脅威や誘惑から護りながら、自分好みの大人の女に育てていく……
それも楽しかろう。

ようやく見つけだしたのに、彼の腕をするりと抜けていった女を思うと、腹立たしい。
いや、愛しい。

愛しい、だと?

とにかく、あの女は俺のものだ。
何としてでも、探しだし、連れ戻す。
八重山が元のところにいるはずも無かろうが、念のため片山セリを脅してみようと思った。
淳之助になど渡さない。
八重山など、以ての外だ。


夫という名の男が腹立たしさや屈辱感で眠れぬ夜を過ごしていた頃、
恋人という名の男は満足感に浸っていた。

失いかけた秀子を再び手に入れた。
しかも、彼女は妊娠していた。
彼女が連れ去られる前は妊娠を恐れていたはずだが、戻って何日かしたところで彼女にそれを告げられた時、自分でも信じられぬほど嬉かった。
今までに増して、秀子が愛しいと思った。
彼女をずっと手元に留めておくなら、彼の子を宿したことに何の問題があろうか?

戻ってきた直後は、秀子はメソメソと泣いていた。
今となっては体調が余程悪かったのだと分かる。
度々嘔吐していた。
居合わせた時は背中をさすってやったが、仕事に出かけている時も気が気ではなかった。

燿が毎週来るようになってから、悪阻も峠を越えたようだった。
夏の終わりに燿が簡単な洋服を作ってきた。
腹部を締め付けないので具合がよいのだろう、秀子もやっとまともに食事をするようになった。
気が付けば、極端に細かった秀子の腰も微かに厚みを加えていた。
少しは動けるようになり、何とか家事を再開するようになったところで、やっと秀子も泣かなくなった。

「俺を頼って欲しいんだ」
松吾は何度も繰り返した。

「君が本来できる贅沢はさせてやれないけど、君と子どもを全力で護る」
「うん……」

秀子は素直に彼の肩に頭をもたせかけた。
長い髪が彼の背中に触れた。

眠ってしまった秀子を胸に抱え込み、松吾は戸惑う。
彼女が拒んだことはない。
以前は月の障りの時には拒まれたが、妊娠してからはなくなった。
たまに「だるい」と訴えることがあるが、抱き合ううちにどうでも良くなってくるらしかった。
自分に縋ってくる腕に力が込められるのが嬉しい。
ところが、泣き出すことがある。
途中であったり、余韻に浸っている時であったりするが、まるで一貫性がない。
以前、同僚が普段なら何でもないことに、妊娠中の妻が怒ったり泣いたりして扱いにくいと嘆いていたことがあった。
秀子は訳もなく悲しくなるたちなのだろうか。

「…松吾…さん…」
眠っているはずの秀子の唇がわずかに開いた。

「俺はここにいるよ」
松吾は秀子の唇に軽く触れた。


隠された幸せは、ある日突然終わりを告げた。

松吾と秀子が暮らす長屋に、夜更けになって来客があった。
不審に思いつつ、玄関を開けると、軍服の男が四人いて一人は西条功喜であった。

秀子は悲鳴を上げ、松吾は咄嗟に秀子を後ろに庇った。

「貴様、それは何の真似だ? その女は俺の女房だ、引き渡せ」
「断る」

功喜は銃で松吾を殴りつけた。
秀子を庇っていては身動きが取れない。
功喜は部下達に命令した。
三人がかりで松吾を秀子から引きはがし殴りつける。

功喜に乱暴に引き寄せられた秀子は銃にしがみついた。
銃口を自分の胸に当てると、
「やめて! 私が勝手にここに来たのです、その人を放して!」
と叫んだ。
功喜も部下に停止を命令せざるを得ない。

「秀子さんを俺に返せ」
松吾は鋭く睨みつけながら言う。

「返せ、だと?」
「そうだ。返せ。秀子さんにとって、あんたは鬼だ。あんたがいる限り地獄なんだよ」
「黙れ!」
功喜の顔色が真っ青になった。
「貴様が秀子に何をしたか、俺が知らないとでも思っているのか?
秀子はおまえの女房に向くような下賤な女じゃないんだ。
女中の真似事なんぞをさせおって、ただで済むと思うな」
「女中か」
松吾があざけるように口元を歪めた。
「あんた、自分と好きな女とで生活を作り上げていく楽しみを知らないんだな。哀れな男だ」

「下郎めが。負け犬の何とやらだな。楽しみはせいぜいおまえに相応しい卑しい女とやれ。
……おい、秀子、その物騒な姿勢は止めろ。おまえがいい子にすれば、その男を医者の所に運び込んでやってもいい」
「………」
「ほう、まだ欲張るか。それなら、その男の負傷は俺の女房を庇ったからだと証言してやろうか。そいつが失業しないようにな」

「……約束を違えたら、私も生きていられません」
秀子の弱々しい声に松吾の悲痛な叫びが重なった。
「やめろ! 秀子さん!」
秀子はのろのろと立ち上がった。
その瞳だけは憎悪に燃えていた。

「心までおまえに渡した訳じゃない、虚しくないのか?」
松吾がまたもやあざけった。
しかし、今度は功喜は顔色も変えなかった。
「こいつの心がどうあろうと、俺のものに変わりはない。秀子の願いは聞いてやろう、だがその前に、
……その男を死なない程度に痛めつけろ」
それから秀子を引き立てて行った。
部下達は上官がいなくなると、二、三発ほど松吾を小突き、外へと連れだした。


荘一朗と燿がこの家を訪ねたのは翌々日だった。

玄関が開いているのに、誰もいないなあ、と訝っていると、近所のおばさん達が二人に気付いて駆け寄ってきた。

「八重山さんのご親戚?」
「友人です」
「この際、お知り合いなら誰でもいい。そりゃあ怖かったんだから」

おばさん達は口々に夜の大騒ぎのことを話し、玄関の血の痕を指した。
いつもは野次馬根性丸出しのご近所も、物音のあまりの恐ろしさに、電灯を消し、布団を被って震えていたという。

その日の午後、若い女が西条家にメイドとして雇ってもらえないかとやってきた。
「短期で良ければ雇えるかも知れないわね」
松はそう考え、追い返さずに奥様の所に連れて行くことにした。
「名前と出身地を教えて頂戴」
「三園燿と申します。泉町の出身です」
「泉町? そりゃあ、ご縁があるねえ。ここの坊ちゃんが今豊浜町で勉学してらしてね」
「そうですか」
「今伏せっておられる若奥様も豊浜の出なんだよ」
「伏せっておられる……のですか……」
「そう。だから、お元気になられるまでの人手が必要だと言っていたところに、おまえさんが来たんですよ。まるで計ったような偶然ですね」


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