「聖諦」


燿は年内という期限付きで雇われた。
短期なので、たまたまあるメイドの服を借りることになった。

「私は女中頭の後藤松です」
「よろしくお願い致します」
「燿は……おめでた?」
「いいえ」
「随分立派なお乳だこと」
「………」
「なるべく大旦那様のお目に触れないようにはするけれど、晒しは巻いておいた方が良いだろうね」
「はい……」


その夜、ふらりと淳之介が帰ってきた。
「いつまでも待たされているから父上に催促しに来たんですよ」
淳之介は出迎えた家人に笑顔を向けた。
父も母も困惑していた。
「呆れたこと。あの女なら二階で伏せってますけど……」
母はその後を言い淀んだ。
「帰ってきたんですね? それはよかった。それならはっきりさせましょう」
「本当に良いのか? 秀子はどこぞの男の子どもを孕んでいるのだが……」
父が諭すように言った。
「僕ならそんな勝手な真似はさせませんから、ご心配なく。
だいたい、今どきの女が、嫁入りした時には既に妾がいて、最初から顧みられぬという事態を、黙って受け入れるものか」
「何だと?」
「芳川男爵のお嬢様をご覧なさい。心中未遂を二度も起こして大騒ぎをおこしたじゃないですか。
そんなことにならなかっただけでも、義姉さんの分別に感謝すべきです。
ね、父上、女の振る舞いは男次第だ、そうでしょう?」
「それは、そうだが……、だが、淳之介、間に合わないかも知れぬ。帰ってきてもあの嫁は何も口にしないのだ。脅しても、すかしても」
「そう? それなら僕が言い聞かせましょう。……そこ…の新らしいメイド?
その子に盆を持たせて付いてこさせてください。兄上も御覧になりますか?」
「いや……やめておこう」
「そうですね。僕の言うことを聞くところを御覧頂くのは、残酷かも知れませんね。では、父上は?」
「わかった。見届けよう」
「けっこう」
淳之介はどんどん2階へ上がっていく。

そこで、燿はお盆の上に様々な小皿を載せて、淳之介に従った。

その時、秀子は伏せったままだった。
突然入ってきたのは淳之介、続いてなぜか燿がお盆を捧げ持ち、その後ろには義父がいた。
秀子が口を開くより早く、
「この子は新しいメイドです。ご心配なく」
と淳之介が言った。

「何も食べないんだって?」
「ええ……」
「お腹の子がひもじいと言ってますよ」
それをいわれるのが一番辛い。
秀子の頬を涙が伝った。
「いろいろ辛いことはあるだろうけど、その子のためにも食べてくれないかな?」
「でも……」
「何も心配しなくていい。とにかく健康な赤ちゃんを産むことに全力を尽くさなくちゃ。
それから、あなたにとっても一番良いと思われるように考えていけばいいんだ」
淳之介はゆっくりと確かめるように言った。

燿がお盆をその場に置いた。
「二日、何も食べていませんから、そのお粥くらいしか……」
「それでいいですよ」

秀子が匙に手を伸ばしたところで、淳之介は父の方を振り返った。
「脅しが何の役に立ちましょう?」
それから、淳之介はお腹が空いたと言いながら、父親と一緒に退出してしまった。

「燿ちゃん、……なんてバカなことをするの? 本郷さんと幸せにお暮らしなさい」
秀子は小声でたしなめた。
「秀子様と御子を護ります。主人も私も同じ思いなんです」
秀子は唇を半開きにして何か言いかけたが、ふっと息を吐いた。
「本当にお馬鹿さんね」
「はい…」
「燿ちゃんは役者としては大根ですからね。松と豊子には打ち明けておきなさい。あの二人は味方になってくれるわ」
「はい」

それから耀はお盆をさげ、秀子が何を食べたのか報告した。


功喜は秀子を連れ戻す以外にはなかったのだ。
他に匿う場所はなかった。
ヤス子では頼りにならない。
あの妊娠した秀子を見たら、寧ろ秀子に同情してしまい、積極的に逃がすだろう。
強引にでも八重山から引きはがし、夫婦間の修復を計るつもりでいたのに、なぜ淳之介がこういう中途半端な、休みでもない時に帰ってくるのだ?

淳之介も自室に引き上げたところで、功喜は秀子を寝かせている部屋に通じる襖を開けた。
彼女は即座に起きあがって誰が入ってきたのかを確かめた。
それが夫であると分かって、彼女は身を縮め、小刻みに震えた。
「いつまで意地を張ってるつもりだね?」
極力穏やかに尋ねるのだが、彼女が答える声はやはり震えている。
「いえ……意地などございません。お好きになさってくださいませ」

淳之介が悪い偶然で帰ってきて、ますます取られそうになっているのを感じる。
誰が何を言っても、秀子は母子心中を図るかのように、何も口にしなかったというのに。
父は何事かボソボソとつぶやいていた。

功喜は秀子の布団の手前に座った。
「ここから近付かん。それなら怖くないだろう?」
秀子は驚いて夫を見つめた。
「信じろと言っても無理かもしれんが、俺はおまえとやり直したい。俺は……」
そこで何を言いたいのか突然忘れてしまった。
秀子は、と見ると、ハラハラと涙を流していた。
「あまりなお言葉です。それなら、粟本さんはお妾のままなのですか?」
「しばらく共に棲ませたのは間違っていたのだな。おまえがヤス子を気にする必要はない。
立場が違うのだから、おまえ達を比べることなどできないのだよ」
秀子は尚も涙を流し続けたが、唇は半開きのまま動かなかった。
「ヤス子のことは抜きにして、考えておいてくれ」
夫はそれだけ言うと立った。


西条家に戻された秀子には、外出はおろか庭に出ることさえ禁じられた。
舅姑は目を合わせようとしない。
メイド達はある者は同情の目をし、別の者は軽蔑の表情をした。
秀子は、本を読んだり、産着やおしめを縫って一日一日を過ごしていた。

家出前にはなかった奇妙な習慣が夫に始まった。
夜、寝る前に襖を開けずに
「秀子」
と名前を呼ぶ。
「はい」
妻の返事を確かめると、押し黙ってしまう。そして、
「おやすみ」
と一言だけ発するのだった。
「おやすみなさいませ」
秀子もそのまま返す。

松吾の子を宿した秀子の姿を見たくないのだろう。
だが、それにしては「秀子」と呼ぶ声は優しい。

寝付けない夜が続く。
胎児のためにも十分眠りたいとは思うが、なかなか考えがまとまらない。
連れ戻された時に堕胎させられるのではないかと恐れた。
幸い、中絶するには遅すぎると判断されたようだった。
だが、無事に生まれたとしても、西条家がこの子の存在を許すはずがない。

秀子は夫や家族、社会に対して罪を犯したことは自覚している。
もともと夫が悪いのだ、私は恋愛をしているのだと割り切れるほど、秀子は強い女ではない。
無事に子どもを産みたい、育てたい、とそればかりを願う。


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