「小さな命」

雪

まだ若いのに妙に手慣れている。

松は燿の仕事ぶりを見て、不思議に思った。
離れの女中部屋に引き上げた時、松は燿に職歴を聞いた。
燿は小声でざっと説明した。

「おまえが尋常しか出ていない子だって?
三嶋家のお嬢様と言い、その繭問屋と言い、……本当に、まあ、なんて運に恵まれた子だろう。
燿、おまえがもともとどこの女中だったかなんて、豊子以外には言ってはならないよ」
秀子と同じ事を言うので、燿も神妙な顔で頷いた。

それから、結婚したばかりという燿を気遣ってやったが、
「おまえは臨時だから、家に帰る日を多めにしてやってもいいけど……」
「いいえ。他のメイドさん達と同じにしてください」
燿の方が断った。

夫に会えないのは苦しいのだが、職場の人間関係の方が恐ろしかった。
ねたまれたり、そねまれたり、逆に奇妙な期待を持って愛されるほど恐ろしいことはない。

「不思議だけど、そうなのよ」
松も苦笑した。
「器量よしで心が真っ直ぐな女の子は、大抵不幸な目に遭うんですよ。
私は、まあ、不器量なのを自慢したいくらい。
少々器量が良くても、自惚れ屋で根性がねじ曲がった女なら、不幸を不幸とも気付かず、よろしくやって苦しむこともないのだから。
もし、神様が本当にいらっしゃるなら、余程の莫迦でしょうよ」


きつい一日で疲れ切っているはずなのに、荘一朗はなかなか寝付けなかった。
久しぶりに戻った実家では、気に入っていたドイツストーブが壊れていた。
米騒動の時に、父の書斎に投石がなされたという。
豊浜町では投石くらいで済んだのだが、泉町では困窮民が資産家を襲撃したりあるいは放火までした。
三園商会もあやうくもらい火をするところだったらしい。

困窮民の怨嗟が分からぬではない。
今、学生である自分が妻と二人きりで暮らすこの家だが、同じ面積に五人六人が暮らしている貧民はざらにいる。
もう辞めさせてしまったが、燿の給金は土工や荷車轢と同程度だった。
汗水垂らして働いても、燿の稼ぎに及ばない大の男などいくらでもいる。

その彼らの前で羽振りの良い振る舞いをしてみせる金持ちどもを面白く思わぬのも当然だった。
襲撃を受けた側は、米があるわけではない、
単に事業が成功していたというだけの「罪」で家財や商品が破壊されたのは無念であった。
寄付を強要された芸妓にいたっては、言いがかりもいいところだっただろう。
それでも、荘一朗には彼らを嗤う気にはなれない。
世の中の仕組みそのものが何かおかしいのだ。

予想されていたことだが、燿がなかなか帰ってこられない。
「おやすみ」と言う相手がいないのは堪える。
東京に来たばかりの頃には、すぐに馴れ、学校で友達もできて、なんということもなかった。
当時と今の違いは、妻としての燿を知っているかどうかだけだというのに、焦燥感ばかりが募る。

そして、ふと考えた。
秀子を巡る二人の男が置かれた状態は今の自分と同じである、と。

正確には違う。
荘一朗は燿が決して自分から離れないことを知っている。

先月、教官が何を勘違いしたのか、「既婚者にやろう」と言って『赤い鳥』を荘一朗に譲ってくれた。
まだ子どもはできてもいないのだが、と思いつつ持ち帰ったら、燿が熱心に読んでいた。
『蜘蛛の糸』を彼女がどう読んだかは察しが付く。
蜘蛛の糸を登る主人公の後から登ってくる無数の罪人達を、彼女自身の親や弟妹に重ねたに違いない。
だから、荘一朗は冷酷に燿の足下で蜘蛛の糸を切断したのだ。
実の親と縁を切らせ、三園商会の養女を妻に迎えたのだ。
燿がそれを恨んでいる様子はない。
それどころか、地獄の底を心配げに見やる。
そして、地獄から這い出したきっかけを作った秀子と、迎えてくれた荘一朗を、まるで信仰しているかのようなのだ。
だから彼女はどこへも行けない、
行けるはずがない。
それでも、物理的に彼女の不在は心をかきむしられる。


松吾は意識を取り戻すと、すぐに自宅に帰った。
診療代は翌日に支払った。
西条功喜に世話になるくらいなら、死んだ方がマシだ。

秀子と胎児の命だけが心配で、その足で西条家へ向かった。
門の付近で自動車に轢かれそうになって飛び退いた時、また血が噴き出した。

「血の気の多い男だ。これでましになったろう?」

運転していたのは、案の定西条功喜だった。
松吾は無言で睨み返した。

「いつまで待っていても無駄だ。秀子は出てこないぞ」
「……元気でいるのか?」
「勿論だ。秀子に相応しい生活だからな。おまえの所にいるよりは、腹の子も元気に育つだろうさ」

秀子は無事だ……
無表情を作ってはいるものの、松吾が安心したことは見透かされているのだろう、
功喜は愉快そうに笑って出かけていった。

「必ず……迎えに来るから」
松吾は舘を睨んでつぶやいた。


秀子が産気付いたのは、年も押し詰まった頃だった。
目尻に涙を滲ませて、酷く痛むと訴えた。
助産婦を待ちながら、秀子は声を押し殺して呻いていた。
我慢強い秀子が訴えた時には、大部切羽詰まっていて、出産間近らしいことが分かった。
舅姑は自室に籠もり、夫は自動車で出かけてしまった。

義弟は玄関で助産婦を迎えることにした。
燿が秀子について手を握った。

「心強い……。ありがとう、燿ちゃん」

秘密裏での出産ゆえ実家に帰ることもできない。
隠れるようにして、叫び出したいほどの陣痛に耐える秀子が、哀しいほど美しく見えた。
助産婦が息を切らして走ってきたが、妊婦の具合を見た時には、もう頭が出始めていた。

ぐったりとしている秀子と、元気に泣く赤ん坊を、最初に見た男は淳之介であった。

「……八重山さん、外にいるよ」
淳之介はそっと秀子の耳元にささやいた。
秀子の瞳に新たな涙が湧き上がった。
声を殺した秀子は涙を流し続けた、と燿が言っていたのを思い出した。
「無事に生まれたと言ってきますよ」
母親になったばかりの秀子が頷くのを確認して、淳之介は立ち上がった。
年始の休暇を今年もまた返上した松が助産婦の接待をしている。
その脇を通り、淳之介は靴を履いた。
外気は一層冷えている。

門の脇に男が二人いた。
松吾と、帰ってこない妻を案じた荘一朗である。

秀子の出産を告げてやると、松吾は堪らず喉の奥で低い声を洩らした。
荘一朗は微笑した。
「申し訳ないけれど、燿ちゃんをもう一日」
遠慮がちに淳が言うと、荘一朗はその肩を軽く叩いた。
「西条氏は……」
「兄なら逃げました」
松吾の眉根が微かに寄せられた。
「八重山さん、怒ってますか?」
「いや……いたたまれぬことは分かるから……」
「どうしようもない男だな」
誰か、と限定せずに淳之介がつぶやいた。
凍死する前に、と淳之介に促され、二人は戻っていった。

妻の出産から逃げ出した夫は、思いも寄らぬことに妾から拒絶された。
玄関の鍵を閉めたまま、ヤス子は訴えた。

「勘弁してください。本妻さんに付いていておやりよ。私だってそこまで鬼になれやしませんよ。
女房の過ちが許せなくたって、子どもには何の罪もないんだ」
「ヤス子、入れてくれ。とてもあそこにはいられんのだ」
「やだったら、ぃやです!」

何度か怒鳴り合いがあった後、彼は漸く諦めた。
家に帰りたくはないが、かといって色街へ赴く気にもなれなかった。

気が付いたら、職権を濫用して会社に聞き出した八重山の家の前にいた。
家の脇に秀子が何か植えていたのだろうか、
それはすっかり枯れていたのだが、お嬢様育ちの秀子があの米価高騰を乗り切るために、慣れぬ土いじりをしている姿が目に浮かんだ。
「そうだ、枯れろ。枯れてしまえ。おまえに相応しくない思い出じゃないか」

西条功喜が早朝に戻った時、秀子は眠っていた。
赤い顔をした小さなものが袖を動かしていた。
美しい秀子が産んだ子どもなのに、醜い。
父親の方に似ているのだろう。
裾をめくると、男の子だと分かった。

応接間では淳之介が眠りこけていた。
功喜は舌打ちしてそのまま出ていった。

松は赤ん坊だった淳之介を抱いた経験がある。
助産婦にコツを聞いて、すぐに思い出した。
秀子と、将来母親になるであろう燿に、指南してやった。
奥方様は嫁の子どもを一度も見ていない。

人目に立たぬように夜になってからやってくる松吾に「帰れ」というのは淳之介であった。

「みつからないうちに。ここに入れてやることはできませんから」

松吾は微かに会釈して引き下がらざるを得ない。
そのくせ様子伺いを止めないのだから、危険なことこの上ない。


西条功喜は逃げ続けている。

大晦日の夜、除夜の鐘が鳴り始める頃、ヤス子は遂に根負けした。
「やり直したいんでしょ。一緒にいてやりゃいいじゃないの……」
言うこととは裏腹に、玄関を開けて、冷え切った夫を中に迎え入れた。
よくぞここまで大人しく待ったものだと感心する。
「今の秀子を抱くわけにはいくまい? おまえの時に学習したからな」
夫は苦笑して言った。
酒を出せ、という声は無視して、慌ててお茶を煎れてやる。
「だんだんあっためた方が良いと思うの」
ヤス子は気弱な微笑を見せた。

夫は確かに秀子とやり直したいと言った。
それは真実だと思い、観念した。
それなのに、夫は本妻の出産に色を失い、自分は彼を突き放すことができない。

元旦をヤス子と過ごし、さすがにその夜は帰宅した。

秀子はまだほとんど伏せった状態なのだから、彼女が家出していた頃と変わらぬ状況なのに、緊張感はかつてないほど高まっている。

二階に上がって、秀子の様子を覗いてみた。

秀子は重たげな乳房を露わにして、赤ん坊の口に乳首を含ませようと苦心していた。
何度目かの試行で赤ん坊は乳首をくわえ込み、無心に吸い始めた。
秀子の顔に微笑が浮かぶ。
やがて、吸われていない方の乳首からも、乳が滴り始めた。
滴が落ちる間隔はどんどん狭まってゆき、秀子は赤ん坊の位置をずらして、授乳を待ちわびていた乳首をくわえさせた。

功喜は目を背けた。

西条家の者は凍り付くような正月を過ごしているというのに、秀子と赤ん坊だけはどこか温かだった。
彼はまたもや逃げ出した。


燿は松からある程度打ち明けられていた。
西条家として許容できない赤ん坊である以上、始末せねばならない。
奥方が松に一任したので、松は早く引き受け手を捜さねばならないのだ、と。

先延ばしにして、母子の触れ合いを多くすればするほど残酷なのだとは分かっている。
松はこっそり、殺させたくない、とつぶやいた。
確実に赤ん坊を始末するという噂の者は何人か知っているが、その誰かに託したくはない。
確実に始末せよと言う命令はあまりに辛い。

日が経つに連れ、秀子のお乳の出もさらに良くなっていった。
赤ん坊が、固く張りつめた乳房の痛みを解放してくれる。
最初は、自分にも松吾にも似ていない子どもに戸惑った。
秀子の乳を得て、赤ん坊の顔立ちも整っていくかのようだ。
どちらに似ているのだろう?

秀子の優しい微笑を見るたびに、松は息苦しさを覚える。
秀子が子どもを慈しむほどに、功喜がそれを憎悪するのが見て取れる。
早くしなければ、と思う。
でも、やりたくない。
特に淳之介がまだいる間は。
赤ん坊の淳之介を抱いた自分が、その淳之介の目の前で、別の赤ん坊を「殺せ」と差し出す役はあまりに辛い。


淳之介が豊浜に帰ってしまうと、松は豊子に後を託した。

その日も秀子は赤ん坊を幸せそうに抱いていた。
低い小さな声で歌っている秀子の横にやってきて、彼女の腕の中を覗き込んだ。
赤ん坊は心地よさそうだ。
機嫌の良いことが多い、可愛い子だと思う。
松は秀子の腕から赤ん坊を取り上げた。
秀子は不思議そうに見つめた。
「私も一緒に眠ってしまうつもりよ」
微笑をたたえたまま言う。
秀子が、乳呑み児のうちに子別れさせられることもないだろうと、甘く考えていたのは、明らかだった。
「いいえ」
松は厳しい表情を作った。
しかし、口を開いた瞬間、厳しさは呆気なく崩れてしまう。
「この御子を西条家に置いてはおけませんから」
「そう……。わかったわ、すぐ支度をします」
秀子が手早く自分のとりあえずのものをまとめようとしたので、松は慌てて制した。
「御子だけ」
「子どもだけ、って……。まだ乳呑み児なんですよ」
秀子は苦笑したが、やがてその笑いは凍り付いた。
「だめよ。やめて。その子を失うなんて!
追い出すのなら、私も一緒に。‥‥だから、返して」
松は赤ん坊を抱いたまま後退った。
それから、夫が入ってきて、秀子は自分が何をされたか分かっていたが、抵抗の仕様もなく倒れた。

松は「最も手際よく仕事をする」男の元に、赤ん坊と「養育料」を届けねばならない。

西条邸を出て五分と歩かないうちに、学生に声を掛けられた。
高等商業の学生が2人。
「もしや、その御子は西条のお子さんですか?」
見ず知らずの若者に、西条家の嫁の不面目を暴かれ、松は思わず立ちすくんだ。
我に返り、逃げだそうとしたのだが、若い二人の男に敵うはずもなかった。
「ご安心ください、お味方です」
「僕が本郷君を呼んでこよう」
一人は松をとらえ、もう一人は南へ走っていった。

呼ばれてきた「本郷」は見覚えのある若者だった。
松はやっと安堵した。

「あなた様が、どうして……?」
「妻に……燿に聞いてありましたから、友人に頼んで交替で見張っていたのです。脅かして申し訳ありませんでした」

松はしばらく言葉を失っていたが、漸く毒づき始めた。
「あの娘がもともと若奥様の小間使いとは聞いておりましたが、そなた様の奥様だったとは……。
なぜ、それならそうと言ってくださらなかったのです? 詐欺でございます」
「本当に申し訳ありません。妻は大根役者ゆえ、お知らせさせずにおきました」
「で、どうなさるのです?」
「僕らで育てます」
「お乳は……」
「近所のご婦人にお願いしました。燿が家事を手伝う約束になっています」
そう言って、荘一朗はぎこちない手付きで、赤ん坊を受け取った。
「辰也様、と申します」
松は頭を下げた。
「辰也君の実の父君には僕らから話す、と秀子さんに伝えていただけますか?」
「かしこまりました」

「養育料」は「口止め料」に化けた。
明日、自分の持ち物を取りに行った時、秀子にこっそり教えようと思った。
辰也を殺させずに済んだものの、松はもう二度と西条家に仕えたくなかった。


[ 第U部 完 ]
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