「母子の絆」


辰也を育てるようになり、最初は苦労した。
夜中に空腹を訴えて泣く辰也にどうしてやることもできない。
耀も荘一朗も交互に抱き上げてあやした。
自棄になった荘一朗が己の乳首を含ませると、辰也は不思議そうな顔をして、それでも吸い付いた。
頭脳明晰なはずの彼の珍妙な姿に燿は笑い転げた。
荘一朗がいない時に、燿も同じことをやってみたが、赤ん坊の吸う力の強さに驚いた。
彼女は痛さに悲鳴を上げた。

幸い夜中はぐっすり眠るようになり、昼間にお乳を貰うだけで済むようになってきた。


はるばる麦束村から燿の生母がやってきた日は特に寒かった。
太助からの手紙で分かっていたから、燿は上野まで生母を迎えに行った。

久しぶりに会った娘の腕に乳呑み児が抱かれている。
四〇になったかならないかだが、もうすっかり老母となった母が目を細めた。
「あぁ、初孫だぁ。知らせてくれればよかったのに。
お乳は足りてんの? まさか、おめのおっぱい、はりぼてじゃないだろね?」
「……はりぼてよ」

ややこしい説明は生母には向かないので、預かっている子だと言わなかった。
「でも、近くの方が沢山出るから、分けてくださるの」
辰也は、生後半月ほどで母親から引き離されてしまったせいか、
今では燿を実の母と認識していて、事情を知った人間でなければ、二人を実の母子と信じた。

生母は迷子にならないように必死で娘について歩いた。

娘の家は、生母の目から見ると信じられない立派さである。
夫婦二人と赤ん坊しかいないのに、子沢山の彼女もこのような広い家に住んだことはない。
家の中は明るく、畳が敷き詰められている。
彼女は勧められた座布団を当てるのに、さんざん躊躇った。
畳敷きというだけでも贅沢なのに、その上布団を当てる必要がどこにあるのか?
彼女はきょろきょろとした。
やがて、良い気分になり、娘について台所に入って辺りを眺め回した。

「言っておきますけど、お酒は置いてないの」
我ながら冷たい言い方をする、と燿は思った。
「婿さん、下戸だったかねえ?」
「私の主人のことなら」
言外で「婿さん」ではない、と念押ししながら、燿が答えた。
「下戸ではないけれど、学生のうちから晩酌なさることはないわ」
「おめは学校終わってるでねか」
さすがに可笑しくて、燿は笑い声を立てた。
生母が仕えてきた舅姑の難しさは、燿の比ではなかったはずだ。
主人を差し置いて、嫁が飲むなどと、本気ではあるまいに。
「で、その婿さんはどこへいっただね?」
「私の主人なら、フセンを求めて叫びに行ったわ」
「フセンって何だ?」
「フセンはフセンよ。女には関係ないこと。とくに、おっ母さんや私のような素性の卑しい女には、まるきり関係のないことなのよ」
「よくわかんね」
「そうね。でも、今までは天下国家のことを考えてもいいのは、女を金で買う人たちばかりだった。
フセンが実施されたら、毎日の生活の安泰が一番の願いだったり、女房は一人いれば沢山だと思ってたりする人まで、政治のことを考えて、みんなで日本をよくしていこうとするんだって。
凄いと思わない?」
生母に同意を求めても虚しいので、殆ど独り言である。
「帰ってくるかね?」
「ええ。追い散らされてくるわね。運が悪ければ明日になるけど」

母にお茶を勧め、燿は愚図り始めた辰也を抱いていった。
柱時計が時を告げた。
ふと部屋の隅を見やると、赤ん坊のおしめや肌着が目に止まった。
驚いたことに、おしめの何枚かや全ての肌着が真新しい布で縫ったものである。
何という贅沢をしているのだろう!
生母は娘の豪勢な暮らしぶりに仰天していた。

彼女は無心に来たのだ。
長男の太助は桃郷村の農林学校を目指していた。
思い上がった二人の姉に唆されて、大それた希望を持っていたのだ。
姉たちも、女のくせに小学校で字を習ってすっかり読み書きができるようになっていたから、弟である長男には法外な望みを掛けたのだ。
幸か不幸か、子ども達のうち長女の燿と長男の太助は祖父に似て、学校では良くできる子だった。
だが、家主が反対してきた。
この家にも太助と同い年の男の子がいる。
――母屋が高等小学校で、居候が農林学校。
許されないのは当然だ。
娘達がこれで馬鹿な望みを捨て去ると思いきや、次女の燦が高等小学校で「実業」の勉強があることを聞き出してきた。
小賢しい長女は、それならばまずは母屋の子と同じ学校に通っておいおい専門教育を考えようと知恵を付けてきた。
さらに、母屋の子の勉強を見てあげましょうと水を向ければ、必ずや乗って来るであろうと言う。
進学資金については、燿が独身の時に既に用意したのだという周到さ。
はたして、母屋の反応は燿の予想通り。
話は長女、次女と長男の間で進んでいった。

それでも、上野に着くまでは、嫁に行った娘に頼ることに少々の罪悪感を持っていた。
上野で娘と孫の姿を見た時に、その罪悪感はすっかり消えた。
進学資金とやらだけではない、それに色を付けて渡すべきだ。
戸籍上は親子の縁は切れても、血が繋がっているのだから。
それが孝行というものだ。

娘が満腹して眠った赤ん坊を抱いて帰ってきたところで、生母はお金の話を切りだした。
燿は小さく溜息を吐いた。
自分は生みの母にとって何なのだろう?
「いいわ、おっ母さん。わかりました。
でも、今は駄目。私の通帳は主人に預かって貰ってるの。太助殿宛に進学資金と入学祝いとを送ります。
勿論、主人の帰りを待っててくれるなら、今日おっ母さんに渡せるけど?」
生母は目を白黒させた。
娘の亭主は苦手だ。
いるだけで怒られているような気がする。
「まったく、おめって娘は、亭主ばかりに気を遣って」

夫に気を遣う分を差し引いて親孝行するのなら、燿にとっての対象は舅姑と三園家の養父母なのだが、
生母にはよく理解できていない様子だった。

夕刻になって、「そろそろ主人が帰ると思うの」と燿が引き留めたが、生母は帰っていった。
恥ずかしい生母だと思う。
それでも、結論が方向違いにいってしまう身勝手さはともかくとして、
きちんと燿の思い上がりを見抜いていたのには、さすがに親であると恐れ入った。


子ども達の学校が休みの日に生母はもう一度燿を訪ねた。
彼女にとって不運だったことに、燿はたまたま留守をしていて、荘一朗がいた。
「農作業を子ども達に任せ、高い汽車賃を使ってうちに来る金があるなら、無心の必要もないでしょう。
その体力があるなら、働けるでしょう。
そもそも燿を三園家の養女とした時に受け取った金はどうしたのです? あなたと四人の子どもを養う責任を言い立てたと聞いていますが?」
それは燿の嫁入りの祝いに村中に振る舞って消えたのだという説明を、荘一朗は呆れて聞いていた。
いずれにせよ、彼らを養う義理はないのだと、荘一朗は冷たく言い渡した。


中学最後に県下一斉の試験があった。
西条淳之介は数学で県一番の成績を上げた。
彼は東京に戻り、陸軍士官学校を受験し、入学を許可された。

入学許可の知らせを受けて一週間、西条の主が急死した。
あまりに急で実感も湧かないが、儀式を済ませた後は形見分けを考えねばならない。
「子どもがいない妾にまでは手が回らないわね」
未亡人のつぶやきには、二人の息子も嫁もぎょっとした。

彼女が思いの外妾達に寛容なのは、玄人ばかりだからだ。
三人については、庶子を産んでいるので、今まで通りに「お手当」が必要だろうという。
他の囲われていた女達には何かをしてやる義理はないだろう。
新しい旦那を見つければよいのだから。

淳之介に秀子を奪われる心配が無くなったという事実は、功喜を寛大にした。
二人がどんなに仲良く語らっていても、全く気にならない。淳之介が
「パオロとフランチェスカになったらどうするんです?」
と冗談めかしてからかおうとしても、
「おまえにそんな度胸があるものか」
と返せるのである。
秀子の外出も許可するようになった。
その時は淳之介に付き添いを依頼するほどだ。

四十九日の法要が終わったところで、淳之介は秀子を「プラージュ」に連れだした。
秀子も断ることなく、手早く身支度をして淳之介に付いていった。

青鈍色の無地を女学生のようにきっちりと衣紋を詰めて着ている上、髷を襟足ギリギリに小さく作ってあるので、
相当に地味な印象になるはずだが、却って秀子の美しさを引き立てている。
淳之介は、開襟シャツに学生ズボンといういでたちなので、何度か立ち止まって連れを待った。

淳之介は待ち合わせをしていた。
適当に飲み物と西洋菓子を注文したところで、本郷夫妻が現れた。
燿が背負っている子どもは勿論辰也であるはずだ。

秀子は立ち上がったが、言葉も出なかった。
伸ばしかけた腕を下ろす。
自分は生みの母ではあるが、この子にとっての真の母ではない、と思い至ったのだ。
お乳を分けてくれる婦人を捜し回ったのも、夜泣きをあやしたのも、おしめを替えてやっているのも燿なのだから。

秀子の表情に気付いた荘一朗が、子どもを燿の背から下ろし、秀子に渡した。
秀子はおそるおそる赤ん坊を抱いた。
彼女の手を放れた時はまだ首も据わらない赤ん坊であったのに、辰也はにこにこして抱きついてきた。
「八重山さんが毎週来るし、俺の悪友どもは来て騒ぐし、そういえば燿の友達も来たよな、職業婦人の?
騒がしい家のせいか、人見知りがないんです」

秀子が辰也に微笑みかけ、辰也も機嫌良く抱かれている。
やはり、実の母子は何か通じる者があるのだろうか、燿は胸の中にざわつくものを感じた。
生みの母に抱かれた子どもを見て、子どもの幸せを思えない自分は何と心の狭い女かと思う。
第一、秀子と張り合う気でいるとしたら、思い上がりも甚だしいと言うものではないか。

ふと秀子が顔を上げた。
「辰也は燿ちゃんにお母さんになってもらって幸せね。私も幸せよ」
秀子の笑顔には一点曇りもない。
燿は自分の顔を見られたくなくて俯いた。

秀子には却って残酷なことをしたのではないかと思われた。
それでも、一度会わせてしまったのだから、今後も会わせないわけには行かないだろう。
会えば会うほど、彼女が子どもに執着するのは目に見えている。

別れ際に荘一朗は松吾への伝言を聞いた。
「私、とても疲れているの。もう恋愛なんか沢山だと思ってるの。
だから、無理して私を迎えにきたりしないでください。……そう、お伝え願います」
淳之介と荘一朗は顔を見合わせた。
秀子のいうことを松吾が受け入れないはずはない。
だが、これは秀子の本心なのか。
淳之介や荘一朗に分からないように、松吾にも分からないだろう。
彼女が恋にときめかなかったはずはない。
「もう、いいの。辰也が生きていた、それだけで十分よ」

恋に命を懸けられるほど強い女じゃないから。
秀子は静かに敗北宣言をした。


松吾は、やはり、秀子の敗北宣言をどう受け止めていいのか分からなかった。
「秀子さんが疲れたというのは、本心だと思う。今、無理強いできないのは分かった。
勿論、彼女が迎えに来て欲しくなった時には、すぐに駆けつけられるようにしておく」
もし秀子がこの場にいたら怒るだろうと荘一朗は思った。
しかし、秀子が怒っても松吾は引かないだろうとも。


HOME小説トップ「恋しきに」1次へ

inserted by FC2 system