「母心」


大正一〇年、本郷荘一朗は妻子を連れて帰郷した。
子どもは、公式には夫婦の長男なのだが、三嶋家には真相を明かした上で口をぬぐってもらっている。
この子も二歳になった。

荘一朗の妹桃子は豊浜の大病院の看護婦になっていた。
万事世間からずれた本郷家の娘らしく、いずれは助産婦の免許も取るつもりでいる。
「嫁の貰い手がなくなる」と言われていても、本人には一向気にならない様子であった。
父も兄も、成功者のくせに「けちで無粋な野合の夫婦」なのだから、自分も女傑くらいでちょうどいいのだと笑い飛ばしていた。

ただ、荘一朗の帰郷とともに、来客も増えたような気がする。
昔馴染みの客や宿舎の工員に気をかけ、女中に一通りのことを教え込めばよかった奥方にとって、三嶋家で女中をしていた嫁は頼もしかった。
最初は奥方を嘆かせることもあったが、その都度「生まれの悪さは仕方ない。差し引けば最上の嫁じゃないの」と桃子が応じた。

世間的には不景気である。

ストライキの最中でも豪遊していた旦那の会社すら倒産したという話も随分聞く。

そうした中でお盆の贈り物が増えたのは、やはり帰郷して間もない荘一朗の手腕なのだろう。
あるいは、桃子から譲り受けたミシンを駆使して、子どものいる家庭にはシャツなどを仕立てた妻の内助の功もあるのかもしれない。


この夏、燿は妊娠した。
何度も妊娠や出産や流産を繰り返した母をよく見ていたが、母よりは幸せで楽だと思う。
夫も、夫の両親も優しく、義妹は看護婦である。

体調の良い日に三園家に妊娠の報告に行った。


豊浜では大戦中に繭市場ができていた。
泉町より繭問屋の数も多いので、好景気の時期に作ってしまったのだ。
泉町では三軒の問屋がそれぞれで競りを行っていたが、市場を作って合理化を図ろうと話がまとまったという。
三軒の中で最大の三園商会が世話役になり、この冬は市場の準備に追われるのだと言っていた。


久しぶりにヨネとおしゃべりをした。
ヨネは春先にお嫁に行くのだといっていた。
とても嬉しそうだったので、
「佐助さん?」
と小声で聞いてみた。

「うん。ご隠居様が仲人役をしてくださるの。自撰みたいなものだけど、ま、形だけね。
それとね、燿ちゃんに頼むのなら、お仕立て代の半分を大奥様が出してくださるって」
「勿論、お引き受けするわ。でも、お仕立て代なんかいらないのに」
「それは困る。お代は取ってよ。燿ちゃんの腕前は知ってるからね、お代を取ってくれないと次に頼めなくなるもの。それに……すっごく多いのよ」

佐助の家がある村では、いまだに三日三晩の祝言が当然であって、
旅館で一日で婚礼を終えてしまうなどと言ったら、両家ともに腰を抜かすだろうと笑った。

それにしても……、とヨネは思う。

燿はなんと華やいだことだろう。
無愛想で貧乏たらしい美少女の面影はどこにもない。
口数こそ少ないものの、地味な着物姿は粋に見え、それでいて初々しい。
旦那が「けちで無粋」でいる理由は、この若妻を一目見ればわかろうというものだ。

ヨネが仕事に戻ったところで、義姉の染子に頼みごとがあった。
事業に荘一朗が加わるようになって、少しずつ来客が増えているのだから、客間もそれなりに整えなければならない。
ところが、貧しい生まれの燿ばかりでなく、新興の家だけに姑にも何を選んでいいのかよくわからない。
その点、徳川時代から続いている三園家なら、目は確かだろう。
養父母に頼んでもよいのだが、本郷家が西洋かぶれで知られる以上、より新しい感覚が必要と思われた。

染子は快く請け負った。
奉公人だった頃からこういう子だったと思い返す。
呑み込みは決して早くないが、取っ掛かりを一つ掴んでしまえば、めざましい変化を遂げる。
もとは小作の娘だった燿が、なかなかどうして立派に中流家庭の夫人をやっているではないか。

いよいよお腹が大きくなる前に、ヨネの花嫁衣装は仕立てたい。
夫に、姑に、看護婦に叱られたが、燿は年内に頑張り通してしまった。

完成を知らせると、染子が何幅かの掛け軸を持って訪ねてきた。
思いがけない助力である。
舅姑も、やはり「三園家」から嫁を迎えて良かった、三嶋の旦那はさすがだと言っていた。


燿の生母が現れたのは、工場の仕事納めの日だった。

母屋にやってきた時、応対に出たのは姑だった。
嫁の生母は年を越せそうにないから恵んで欲しいと訴えた。

「無茶を言わないでください。お宅様だって上の子はもう働いているじゃありませんか」
断っても、老婆は引き下がらない。
あまり言いたくないことではあるが、戸籍上、嫁と彼女には関係が無くなったのだと告げた。
そのことについても、老婆は理解しているのか、いないのか、燿は自分の娘だと主張した。

「他人様じゃ話しにならね。アキを呼んでくだせえ」
そう言って上がってこようとした。
姑は慌てて押しとどめながら
「お断りします。嫁は今大事な時なんですからね。あんたも母親なら娘を苦しめるんじゃないよ、帰ってください」
早口でまくし立てた。
「アキ! アキ!」
老婆は大声を張り上げた。
「一二年間育ててやった恩を忘れたか!」

台所にいた燿はその声に一瞬息が止まった。
慌てて割烹着を脱ぎ、玄関へと行った。
白髪頭をうち振って娘の名を呼ばわっている生母がいた。
姑は目を見開いた嫁の方を振り返って女中を呼ぶように言った。

女中が出てくると
「カネ子さん、工場に行って、荘一朗を呼んできとくれ」
と命じた。
荘一朗、と聞いて、老母はぎょっとした様子を見せた。
「また、来ます」
彼女はそう言い置いて退散した。

荘一朗が母屋に戻ってみると、燿は廊下に座り込んでいた。
「燿?」
「太助からも、燦からも、困ってると聞いてなかったわ……」
燿は掠れた声でつぶやいた。涙が頬を伝う。

「今年は水害があって不作だったから、みんなで地主さんに掛け合って、小作料を下げさせたって……太助が書いてきたの。
燦だってこの不景気に首切りされなかったって言ってきたのよ。
太助は学校を出てからとてもしっかりしてきたと思います。
今の身の程にあった暮らしをすればいい、お天道様に一点恥じるところもないんだって言うの。
私の自慢の弟……だから、安心していたの。
私だったらおっ母さんにどんなことされてもいいのよ、でも、辛いわ‥‥おっ母さんが、あなたや本郷家の思いも掛けぬ厄災になりそうで……」

震える燿の肩を抱きしめた。
「ああ、燿、太助君はしっかりしている。もっと自慢していいよ。彼ともっと話し合おう、な? 俺も太助君の考え方が正しいと思うよ。
君の母上が豊かだった昔を忘れられないのも分かるが、若い者の現実的な考えを聞いて貰おう。
考えてもみろ、汽車でここまで来たんだぜ?」
「うん…」

燿は夫の言うことを悲しく聞いていた。
生母はそんなことが理解できる人ではないのだ。
彼女にとって燿は「家族でたった一人だけいい暮らしをしている」心の冷たい娘なのだ。


燿が知っているとおり、老母は悲しいやら口惜しいやら情けないやらで怒っていた。
あんなに大きな結構な家に住み、立派な着物を着ているくせに、貧しい嫁の生家への助力を惜しむとは、何という薄情な家だろう。
そもそも、娘に親子の縁を切らせてから嫁に迎える、というやり方からして気にくわなかった。
「うちから嫁に出すのでなければやりません」とはっきり言ってやるべきだった。

遠くの町へ奉公に出す時、娘に期待したのは、どこかの気前のいい旦那を引っかけてくることだった。
姿の良い娘なのだから、女中奉公でなく女郎屋に売れば良かった。
その方が余程良かった。
そうしておけば変に気位の高い女にならずにすんだかもしれないのに。


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