この二年間、秀子は夫に奇妙な提案をし続けてきた。
秀子を離婚にして、ヤス子を本妻にしろと言い張るのだ。
八重山と手紙のやりとりをしているのは、知っている。
どうやっても止められないので、放置しているのだが、色めいた噂は今のところないようだ。
「粟本さんは素人の女性ですわ。それも、私よりもずっと長くあなたに添ってきた女性ではありませんか」
「三人の御子が可哀相です。あなたの御子はこのままでは庶子だけなんですよ」
ばっさりと短くした断髪頭で、功喜に詰め寄ってみせたり、やんわりと話し出してみたり、
隙あらばその話に持っていこうとするのだ。
秀子の強気の原因は分かっている。
第一に、平松の本妻と友情を取り戻したことだ。
平松永子の影響で、秀子は娘時代には未来を思い描いていたのだと思い出した。
逆に永子は秀子に影響を受けて、髪を断髪にし、洋服を着始めた。
見た目まで、新婦人協会だとか、赤瀾会のようになってしまい、平松大尉も困惑した。
「まともな女がズロースなんか穿くものか」
すると、永子夫人は澄ました顔で、
「そういえば、あなたこそ、結婚する前から洋装でしたわね」
と言い返したらしい。
軍人が和服というわけにはいかないのを百も承知で。
第二に、白蓮事件である。
あの事件の報道を読んで、すっかり舞い上がってしまったのだ。
「そうね。私、白蓮さんのシンパかしら」
秀子が聞くもおぞましいことを言ってのけた。
八重山の影響に違いない。
功喜には秀子の言うことが分からない。
離婚されたら、「出戻り」と陰口をたたかれるのは彼女であり、彼女の実家ではないか。
矢も楯もたまらず好きな男の元に走るというのなら、面白くはないが、納得はする。
ところが、夜に外出することは全くないし、二人の交流は主に文通で済ませているらしいのだ。
もう二三歳にもなって、今さら何ができるというのか?
人生の半分終わった女が将来も何もないだろう。
私生児を産んだことは表沙汰になってないのだから、大人しく生きていけばいいのだ。
世の中が不景気でも、華族には関係がない。
安全に生きていけるのに、秀子は何が欲しいというのだろう?
秀子には、なぜ夫が素直に聞いてくれないのか分からない。
秀子とヤス子。
どちらが真の意味で妻であるのか、明白ではないか。
ヤス子は三人目を妊娠中だが、秀子は夫の子は一人も身籠もっていない。
それに、夫は天下国家を憂えたり、出世を望んだり、随分忙しいではないか。
秀子に「自分自身の力を尽くしてみたい」という願望などあり得ないと、どうして断言できるのだろう。
秀子は子供服を縫って、ヤス子の家に持っていった。
「ずっと動きやすいのよ」
秀子の笑顔にヤス子は戸惑う。
後から松吾も顔を見せるから、と言われ、ヤス子はどう答えていいか、すっかり困惑していた。
そもそも、本妻が妾の家に遊びに来るというのも珍妙なことなら、
そこで恋人と待ち合わせようというのも、非常識にも程がある。
とりあえず洋服を由子に渡し、着替えてくるように言った。
秀子はお茶を煎れながら(この客は来ると必ず自分と家主のお茶を煎れる)本題を切り出した。
「粟本さんにもきちんと主張して頂きたくて、来ましたの」
「私を本妻にしろ、って奇妙なことをですか?」
「奇妙だとは思いません。名実を合わせた方がお互いに幸せでしょう、って言ってるのですわ」
「名実、ねえ」
「あなただけなら構わないのでしょうけど、子ども達はどうするのです?」
「子どもと言うことなら、本妻さんだって女である以上子どもができるかも知れないじゃないのさ」
「そうよ。だから早い方が良いの。
真の意味で妻であるあなたが妾。家格だけで選ばれた私が本妻。
このややこしく絡まった紐を正しく結び直すには、時間をかけてはいけないのよ。
命短しというじゃありませんか」
「赤き唇の本妻さんはいいでしょうけど、私みたいなおばあさんじゃねえ」
「何を気弱な。最後の機会なのですよ。後悔したまま本当のおばあさんになってしまいますよ」
「でも……」
ヤス子が何か言いかけた時、ワンピース姿の由子が入ってきた。
「可愛いです。奥様、ありがとうございます」
ちょこんと頭を下げた仕草が可愛らしい。
「かか様、私、路地で遊んできます。お庭でおじちゃんが伸平と遊んでくれてるけど、私が連れて行きます」
由子は大人びた事を言って、下駄を突っかけていった。
入れ替わりに松吾が入ってきた。
「旦那様が怒って言うにはね、ご両人。
白蓮は華族の女ともあろう者なのに恥知らずな事件を起こしおって、こっちはいい面の皮だ。ですってよ」
「あら。華族のお姫様に生まれた方にああも鮮やかに恋を貫かれましたものね。
あれが華族の嫁にできないことはないと思いますわ」
秀子が言うことは分かる。
もし、彼女の言うとおりであったとしたら、ヤス子が賛成しないわけはない。
しかし、事態は、頭の回転や記憶力やらが優れているというだけの幼稚な秀子が思い描くほど、単純ではない。
男がなんだかんだと屁理屈を付けるのは、女の才能や意欲を認めるのを嫌うからだけではない。
彼が真に愛する女が飛び去ってしまうことに、恐怖心を抱いているのだ。
彼の腕の中にいる限り、その女は人形でしかないと、彼は気が付きたくないのだ。
秀子に分からなくても、八重山はどうだろう?