「幸せすぎて哀しい」

曼珠沙華

一六歳にして一家を支える太助には母親が頭痛の種だった。
母に彼の決意を語って聞かせた時、彼女は涙を流さんばかりに感動していたはずだった。

小作ではあっても、真面目に仕事をして、貪欲に新知識を求めて、少しずつ自作地を得て、広げていきたい。
ところが、暮らし向きを良くしていこうとすると、母が酒に替えてしまう。
ひとりで飲みきれる量ではなく、
しかも少々金が入ったと言っては、隣近所や世話になった親戚宅に振る舞ってしまうのだ。

吝嗇は自慢できないことだが、身分不相応の振る舞いもまた恥ずべきことであろう。
そう言うと、母は頷き、冠婚葬祭以外で派手な酒宴をしないと約束するのだが、結局約束は反故にされる。

耄碌したのだと思う。

母が嫁に来たばかりの頃、大百姓だったと言うが、昔と今の区別が付かないのだ。
更に最近、一三歳のサクについて、不穏なことを言い始めた。

母は若い頃大層美人だったそうだ。
姉たちも妹も母親に似たのか、それぞれに美人である。
長女は女中、次女は女工になった。
せっかくの美貌が意味を成さない。
サクは女郎にしたいのだ、と言う。
綺麗な着物を着て、お腹一杯食べられれば、結構なことだと考えているようだ。

「燿姉ちゃんが聞いたら泣くぞ。やめてくれ」
姉たちは本能的と言っていいほどに「色を売る」ことを忌み嫌う。
特に燿には顕著だ。

太助が燿の名前を出した翌日、早朝にはもう母親の姿はなかった。
燿にせびりに行ってしまったのだ。

燿は婚家のものには幸い手を付けずに済んでいると言っていた。
彼女は裁縫で稼げるからなのだが、それにしても婚家で肩身の狭い思いをしているのではないか。

彼女が嫁入りしてから母が奪ってきた分と、太助の学校のお金はいつか返そうと思う。
「俺にもこれだけの才覚ができました。姉ちゃんのお陰です」
そんなことを言ってやったら、姉はどれだけ喜ぶことだろう。

果たして、母は豊浜に向かった。
十分に早い汽車に乗っていけば、燿が買い物に出る頃にちょうど行き当たるのだ。
できれば、本郷家の人間と顔を合わせたくないと思った。
燿に結構な暮らしをさせているのは有難いが、それだけのことだ。
燿の生家から「本妻にしてくれ」と頼んだ覚えはないのだ。
むしろ、妾にして、たっぷりとお手当をはずんでくれた方が良い。

潜んでいると、買い物籠を下げた燿と女中が出てきた。
こっそりつければ、いずれは二手に別れる。

一人になったところでそっと呼ぶと、燿はこわごわと振り返った。
彼女は、いつもそうであるように、溜息を吐き、
お金がまとまったところで送金するのだから取りに来るのはやめてほしい、と言った。
「だって、おめの顔が見たかったんだよ。燦は盆暮れ正月しか帰ってこないし、
それにそろそろサクも女郎屋に連れて行くから、うちには女の子がいなくなっちまう」
燿はしばらく無言で母親を見つめていたが、
「嘘…でしょう……」
と掠れた声を出した。
「サクは寡黙だけれど従順ないい子よ。どうしてそんな可哀相なことを考えたの?」
「綺麗なおめしを着せてもらえるんだもん、幸せだ」
「どんなに着飾っても、所詮裏稼業じゃないの。表通りは堂々と歩けないのよ」
「嫁に行くも、色を売るも、男を引っかけて金を出させることに変わりはあるめえよ。
おめだって野合の夫婦でねえか」

母は分かっていないのだ。
野合の夫婦だからこそ、たとえどんな不幸に見舞われたとしても、お互いを離さぬと誓えるのだ。
「惚れた」というだけなら、遊女と客の間にも成立するかも知れないが、それは真実の愛ではない。
だが、『愛と認識との出発』を朗読してやったとしても、母には理解できないだろう。

以前と同じように、夜になってから工場の門の前で金を渡した。
裁縫で稼いだ金と三園家の養父から貰ったものと「たまには自分の物を作りなさい」と舅が渡してくれたもの、全てだ。
「婿さんは?」
「…主人は……接待」
「なーんだ」
「違うわよ。旅館を借りて、芸者さんも呼ばずにやってるんだから。
おっ母さんも以前泊まったでしょ。菊屋さん。あそこにいるのよ」

家で接待した時も、酒や料理を沢山出してクタクタになったが、
夫達がトランプ賭博をやっているのを見ているから、色気がないことは断言できた。
色気どころか、客達も一緒になって
「こう飲み食いばかりしているのでは不健康でよろしくない。ひとつ、昼間に漕艇でもやりますか。
なあに、新しい艇は我々の寄附だ。快く貸しましょうと言うようでなければいかん」
と大笑いしていたほどだ。

燿は、身体が随分しぼんでしまった老母に、自分のショールをかけてやった。
「おっ母さんにあげる。売っては駄目よ。主人が私に買ってくれた物なの。
私にとってはみんな宝物なんだから、人手に渡さないで。
もし、私がお女郎さんで、同じ物をお客さんから貰っても、宝物にはならないわ。
分かって、おっ母さん、お願いだから」

サクも、自分や燦のように、堅気の女にして欲しくて、燿は食い下がっていた。
幸せに過ぎるほど、自分は幸せだと思う。荘一朗に愛されて、もうすっかり幸せの味を覚え込んでしまった。
離したくない、壊したくない……
おっ母さんはそう願ったことはないと言うの?

「アキ……せっかく、金持ちの男とっ捕まえたのに、
貰った物も自分の好きにしちゃいけねえか? おめ、亭主に気使って……」
「おっ母さん……」

微かに、女中が燿を呼ぶ声が聞こえた。
母娘は顔を見合わせた。
老母は封筒を帯にねじ込み、ショールを前でかき合わせて走り出した。
燿はその場に膝を付いてしまった。

気が付くと、激しく肩を揺さぶられていた。
「燿、燿、……」
「………」
「しっかりおしよ!」
「……お義母さん…」
「あの人が来たんだね? おまえ、まだ渡していたの?」
姑は、力無く頷く嫁の頬を打った。

若い頃はさんざん思った。
本当に困窮しているんだもの、手をさしのべてやりたい。
貧乏していたって、立派な人物がいる。

年を取って利口になった今は思う。
本当に手をさしのべるに足る人物かどうか、よく見極めなければならぬ。
立派な人物よりも、節度のない愚か者の方が遙かに多いのだ。

「だから縁を切らせたんじゃないか。まだわからないのかい?」
「申し訳ございません、……私…」
「おまえがどんなに尽くしても、長男をおまえの望む学校に行かせてやれなかったじゃないか。
他の弟だって妹だって苦労してるのにさ」

嫁は肩を震わせている。
可哀相に、どんなに愚かでも実の母だ、おまえが一番辛かろう……
姑は言葉を呑み込んだ。
姑は母屋の方に歩きかけ、後ろを振り返った。
嫁は俯いたままついてきた。


燿はショールを人手に渡すなと言っていた。
確かに暖かい。
ケチ亭主でも自分の女房には優しい。
結婚して5年経つが、変わらず燿を可愛がってくれていると思った。

翌朝には桃里村の停車場前で乗合馬車を待っていた。
いや、買い物をして帰ろう。
東京を経由して往復するのだが、東京は広すぎてどこに何があるのかさっぱり分からない。
買い物は地元に限る。
老母はそう思い直した。

ぶらぶらと歩いているうち、若い男にぶつかられた。
帯にはさみこんだ封筒が落ちた。
男が素早く拾い上げたので、老母も封筒を掴んだ。
「おらのだ!」
「うるせえ!」
もみ合いになり、やがて封筒の中から中身が飛び出した。
折からの風に舞う。
「うわっ!」
老母と若い男は慌てて札を追った。

先に諦めたのは男の方だった。
線路の方へ散らばっていったのだ。

これは、燿の金だ。燿が働いて作った金だ。


太助が速達をよこしたのは初めてだった。

母の死の知らせだった。
なぜか線路にうずくまっていて、発見がおくれたのだという。


HOME小説トップ「恋しきに」1次へ

inserted by FC2 system