「大正一二年夏」

真珠

今日もあの指輪だ。

6月に妾と銀座の百貨店に出かけたとき、あの指輪が目に付いた。
黄金色の真珠にごく小粒のダイアモンドをあしらったそれを見て、思い浮かべたのは本妻の秀子だった。
功喜が買ってやったその指輪は、秀子の持ち物の中では地味な部類に入るし、とびきり高価な物とも言えない。
それでも、秀子はデザインが気に入ったのか、翌日から毎日それを指に嵌めているのだった。

無邪気なものだ、と功喜は呆れている。
二四歳の「年増」と呼ばれる年齢層にいる女が、自分の言動が男にどのような誤解を与えているか気付いていない。
だが、功喜も自身に苦笑する。
二〇代の自分はもっと子どものようだったと思う。
出会いも結婚ももっと遅ければ、案外いい夫婦になれたかも知れない。

「秀子、いつも平松の女房と何を話しているんだね?」
「白蓮さんの事かしら」
夫は嫌そうな顔をしたが、秀子は構わず続けた。
「女って、殿方よりずっと欲張りなのかも知れませんわ」
「ほう?」
「だって、殿方って、一つのことのために何を犠牲にしても良い、って仰るでしょ?
女はそうはいきませんもの。衣食住に困らなかったり、愛したり愛されたり、話を聞いて頂いたり、誰かのお役に立ったり……
全部揃って初めて幸せ」
「炭坑王は衣食住の贅沢しか与えなかったと言いたいのか? 俺もその部類だがな」
秀子は肯定も否定もせず微笑んだ。
「私、殿方にとっての‘一つのこと’を聞くのが好きよ。女相手だからと馬鹿にせずにお話ししてくださる方は少ないですけど。
そういえば、あなたからはまだ伺っていませんでしたわ」
功喜は答えるべき言葉がないことに気が付いた。
軍人としての栄達とはなんのことだろう。
出世か? それは、最早見切っている。
秀子が寂しそうに見つめていた。
「女相手だから話さぬ、と言うのではない。どうやら、俺も随分と欲張りなようでな」
驚くほど素直に答えてしまった。
「それなら私達同類ですね」
秀子の返答もあくまでも穏やかだった。

八重山とは相変わらず文通状態であり、時々ヤス子の家で会う。
手紙に関しては、燿からのものが最も多いだろう。

燿は折に触れ辰也の様子を知らせてくれる。
辰也がカナを読むという報告を受けた後は、時々カタカナばかりで書いた絵葉書を送っている。
梅雨が明けてから、ヤス子の家に行かない日は平松永子と庭球をやったり、時には台所に入り込んでメイド達を困らせたりしている。
つまりは、秀子が西条家に戻されてからというもの、膠着状態が続いてきたのだった。

その日、士官学校の在学中をほぼ首席で通してきた淳之介が、自動車を貸して欲しいと申し出てきた。

「箱根新国道を走らせたいんですよ。義姉さん、泉町まで行けますよ。ご一緒しませんか?」
「行きたい! 連れて行ってください」
秀子は咄嗟に答えてから、決まり悪そうに夫の方を向いた。
「行っても良いでしょうか?」

彼女の顔を見て、誰が離婚を迫っている亭主に向けていると分かるだろう?

「泉と言わず、豊浜まで行ってやれ。秀子の実家に泊まってくればいいじゃないか。真夜中に帰ってこられても迷惑だ」
夫がそう言うので、秀子は自室から包みを持ってきた。
「今夜は粟本さんの所にお泊まりなのでしょう? それならお願いしたいんですけど」
「なんだ?」
「フランス製のシャボンをお分けすると約束したものですから、渡して頂きたいの」

ヤス子がねだったとは考えられない。
他愛のない話から、話題が石鹸のことに及び、ヤス子が相槌替わりに「いいですねえ」とでも言ったのだろう。

女中頭の豊子に戸締まりを命じて、三人で出ることにした。
功喜は弟の運転に不安を覚えたが、今さら許可を取り消すわけにもいかず、妾宅まで送られた。


真珠

「素敵ねえ。大したものだわ。殿方って本当にあっという間に強くなってしまうものなのですね」
秀子は、まだ幼さが残る淳之介が自動車を運転していることに、やたらと感心した。
「これから豊浜まで行くんですね。淳さん一人のお力で」
「いや。そう言われるとお恥ずかしい。自動車の専門家にも同行を願っているので、大崎に寄ります」
「あの……」
「八重山さんには汽車で帰って貰えばいいんだし、兄に分かりやしませんよ」
「卑怯じゃないかしら」
「何を言うんですか。行動あるのみですよ」

松吾を同乗させ、運転を替わってから、淳之介は話を続けた。
「僕と岡宮の兄さんは家に反発して官僚の道を歩もうとした。兄さんはその通りになったが、僕は軍人になる」
「……ごめんなさい、私…」
「義姉さんのせいじゃないよ。それに、僕はこれで良かったと思う」

意外なことを聞き、秀子は淳之介の横顔をまじまじと見つめてしまった。
松吾は特に反応しなかった。

「岡宮の兄さんは立派な役人になりますよ。本人、真面目で秀才で、学閥の人脈もある。
でも、兄さんは惚れた女を自分のものにできなかったし、女が不幸でも手をさしのべられなかった。
本郷さんが僕を訪ねてきたところに兄さんと顔を合わせたことがありましてね、論争になったんだけど……
いや、ならなかったな。議論じゃないもん、あれは」

本人の知らないところで男達が動いていたのか。
秀子としては大変不愉快であったが、淳之介は続けた。

「潔いって言えばそうかも知れないけれど、人としてどうだろう。
僕は『それから』の代助の方が本当だと思うんだけど。
でも、官僚として成していくのなら、人間である以前に官僚たることを問われる。どんなに惚れていても、公式の手続きがない限り何もできないし、しないって言うの?
やだなぁ、と思ってね。
八重山さん、どうする?」

「俺は、秀子さんが納得して、来てくれるのを待つだけです」
松吾はあくまでも静かだ。
「兄貴、手放しそうにないよ」
「それは西条さんの事情です。俺は待つことに決めてあるので」
「知ってた?」
「粟本さんから」
「酷いなあ。妾宅で密会してたんだ」

秀子の不機嫌がはっきりとした怒りに変わった。
「いい加減にして!」
彼らは何を言っているのか?
秀子は何も知らない。
「淳之介さん、私のことに口を出すのは止めて。
それに、松吾さん、粟本さんと何の話をしたの? 私、聞いてないわ」
淳之介は肩をすくめた。それから、
「すみません、義姉さん、あんなに面白い兄貴を見るのは初めてで、つい口出しが過ぎました」
と謝った。松吾は謝らない。
「粟本さんと話したことなのだから、秀子さんに言う必要はない」
淳之介がいるので、言い返さないでやったものの、秀子にはすこぶる面白くない。

箱根新国道を行くうちに、秀子は頭痛を覚えた。
自動車を止めてもらって外に出た。
秀子に続いて、松吾も外に出て腕をぐるぐると回した。

淳之介がまだ車内にいるのを確認して
「頑固者」
秀子は素早く恨み言を言った。
「はあ。すみません」
「すまないと思うなら、粟本さんと内緒話なんかしないで」
「そうは言われても」
「何を話したの?」
「言えない」
「卑怯者」
「秀子さんには言いたくない。これ以上拘るなら、俺の方が怒るよ」
秀子は黙らざるを得なくなり、車に戻った。

豊浜まで来ると、運転は淳之介に替わった。
坂を上るのが嫌だと言って、本郷家に自動車を停めさせてもらうことにした。

「内容を詳しくは話せないが、
……どんな事情があろうと、俺が秀子さんと辰也を望む気持ちは変わらないと伝えました。
……それで答えになりますか?」
秀子に心配させても可哀相だと思ったのだろう、
松吾は真っ赤な顔をして、それだけ小声でつかえながら言った。
「え……まあ…そうでしたの? …ごめんなさい、私、怒ってばかりで」
秀子の方も狼狽えていた。

淳之介が荘一朗と話している間に二人の仲直りは終わっていた。

四歳の辰也が手を引かれてでてきた。
辰也も聞かされてはいる。

実の両親は東京にいること、事情があって一緒に暮らせないこと、育ての両親とは大変に親しい間柄で辛い思いをして彼を手放したこと。
いつかは実の両親がやってくるから、今の両親や妹とも別れなければならないこともうすうす承知していた。

二年半前までよく会っていたという二人の顔を思い出すことはできないが、会った時には「この人達だ」とわかった。
彼は母の後ろからそっと様子を伺っていた。
間違いない、と思った。
彼らは自分を迎えに来たわけではなく、単に会いたかったらしい。
母の後ろに隠れたまま軽く会釈をした。
美しい女性とちょっといかつい感じの男性が嬉しそうに微笑んだ。

実の両親も「いい子に育ててくださって、ありがとうございます」としか言えないのだった。


真珠

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