「震災の後で」

鳳凰

ゴ…と鈍い地響きを感じた。
衝撃があった時、西条大尉は自宅へ帰ろうと判断した。
途中でまたきつい揺れがあった。背後の家の柱が崩れ落ちた。
職場と自宅の間は、自動車で行けば何ということのない距離であるはずだが、酷く遠く感じられた。

自宅に辿り着くと、淳之介が老母を支え、メイド達が真っ青になっていた。
秀子は判断を仰ぐかのように夫を見つめた。
余震がある度、メイド達が悲鳴を上げた。
照明器具であった物が床に散乱している。
母やメイド達が血を流している理由はそれであったか。

「兄上、家の中の落ちる物は天井以外全て落ちてしまったが、もっと広いところに避難した方が良いと思います」
淳之介がしびれを切らしたように提案した。
「そうだな」

淳之介が何も言わずに母を背負った。
功喜は秀子の手を引こうとしたのだが、彼女はそれを押しとどめた。
「行ってあげて。三人の子ども達を抱えて、きっと心細くていらっしゃるわ」
「おまえは……」
「私は新しい女だもの。守られる必要なんかありません」
答える必要がどこにあろうか? 功喜は強引に妻の手を取った。



その頃ヤス子も家を出ていた。
家が倒壊する前に出ようと決めたのだが、瓦が眼前に落ちてきて行く手を阻まれた。
瓦が落ち終わったところで、次の災難に遭う前に脱出する。
小学生の由子は自分で歩ける。
ヤス子は伸平の手を引いた。

「粟本さん! 無事ですか?」
松吾の声が聞こえた時、ヤス子は「助かった」と思った。
「すみません」
「いえ。ちょうど伺うところで良かったです」
よちよち歩きの良司は松吾が抱きかかえた。
思いついたのは皇居だ。

人の波の中ではぐれないように、松吾は手を伸ばして由子の手を掴んだ。

あの男は必ず秀子を守る。
それならば、自分はこの母子を守ろう、と松吾は決めた。
義理なのか、意地なのかは分からない。

通りいっぱいに大八車がひしめく中、取る物もとりあえず飛び出した母子と松吾は身一つである。
熱風に煽られても、身を隠す場所もない。
「おじちゃん」
「大丈夫だ。揺れは小さくなってる。広いところに出るまでの辛抱だよ」
松吾は少女と自分自身に言い聞かせた。
少女も必死で頷いた。

やがて松吾は伸平を背負った。
頑張って脚をひきずって歩いていた彼だが、転びかけた。
こんな小さな子が転んだら最後、避難する大人達に踏まれて圧死してしまう。
由子は弟のお尻を押し上げて、しっかり松吾に掴まらせた。
由子も人に押されるたびに、悲鳴を上げて松吾にしがみついた。

突然発火する。
トタン板が舞い上がる。
まるきり身動きならない中を火の粉が舞い落ちてくる。
人に押され倒れた者の上を、後から避難する人々が駆け抜ける。
犠牲者の悲鳴は届かない。

ヤス子も、上半身裸で人々に踏まれるたび怒っている中年の男や、喘いでいる子どもを見たのだが、目の前の松吾に必死で付いていった。
子ども達全員を彼が引き受けている。
どうして松吾がそこまでしてくれるのかなど考える間もなかった。
いつの間にか草履が脱げて、足袋の底が擦り切れていたのだが、足に感覚はない。



功喜もまた大きな火の粉の直撃を受け、背中に火がついた。
功喜は咄嗟に秀子の手を放した。
「逃げろ!」
驚いている暇などない。
何というバカな男か。
夫を見捨ててどこへ逃げろと言うのだ?
秀子は彼の上衣を引きはがした。
自身も上肢に火傷を負いながら、彼女は泣いて怒った。
彼はもう一度妻の肩を抱いた。
「悪かった…」

夜になってもまだ火が衰える気配がない。
どこをどう歩けば、火災の包囲から逃れられるのか、皆目見当が付かない。
東京駅の方向は火が強くて、とても駄目だという。
人に押されるままでたらめに歩き回るしかなかった。
立ち止まったら死ぬしかない。
夜明けが近くなった頃、漸く風が涼しくなってきた。

淳之介が座りたいと訴えた。
母が動かないと言う。
功喜が三、四人の黒焦げをどかして場所を作った。
この頃にはメイド達とははぐれていた。


場所を確保した時、
「父様、父様」
女の子の声が聞こえた。
「由子?」
信じられない!
功喜はフラフラと立ち上がった。

「ここにいるかもしれないと粟本さんが仰るので」
由子の後ろに、男の子達を両手に抱えた松吾が立っていた。
ヤス子は憔悴しきって座っていた。
松吾の腕の中の、良司は奇跡的に無傷であったが、伸平は酷い火傷を負っていた。
苦しげな息をしている長男を見ると涙がにじんだ。

「申し訳ない。背負ったのは間違いだった」
松吾が本当に申し訳なさそうに言った。
功喜は頭を振った。
生きて子ども達に会えた。
断腸の思いで秀子を「選んだ」時に、自分の罪深さを呪ったのに、八重山が子ども達を守ってくれるとは。
「いや。何より、ヤス子と子ども達を連れてきてくれて、感謝している」
功喜は伸平を受け取った。
松吾は良司を抱え直した。

避難する時にメイドや運転手に荷物を持たせた。
はぐれてしまった今は身を守るものも口に入れるものもない。
とりあえず同期の佐野大尉を頼ることにした。
家に戻っても焼け跡しかなさそうだ。



佐野の家では休ませてもらった。
長く逗留するわけにも行かない。
だが、佐野節子が、一命を取り留めた伸平とその母のヤス子の面倒は見ると請け負ってくれたので、好意に甘えることにした。

亡くなった母の遺体は淳之介が菩提寺に預けに行った。

功喜と秀子については、松吾の好意で大崎の彼の家に寝起きをすることにした。
軍人が身を寄せれば、当然のこととして、功喜が自警団の団長を依頼された。
勿論それは引き受け、不自由ではあったが、なぜか労苦を感じることなく夢中で過ごした。



三週間ほどして、妾宅の方だけバラックを建てた。
いかにも不似合いだが、仮住まいだからと功喜は説明した。

「八重山、世話になりついでに頼みがある」
ヤス子達がバラックの仮住まいに落ち着いた翌日、功喜が突然切り出した。
「明日、秀子を豊浜に連れていってくれ。自動車は佐野に頼んで用意して貰った」
「………」
「離婚する。ヤス子を本妻に直す。頼む」
功喜が頭を下げたので、松吾も慌てて彼の前に正座した。
「承知しました」

功喜は秀子を外に連れだした。
毎晩巡回していれば、朝鮮人に襲撃される可能性など殆ど無いことは知っていた。

「ご両親には申し訳なかったと、おまえから伝えてくれ」
「はい」
「聞かないのか?」
「何を?」
「今になっておまえの希望通りにする理由さ」
「奥様も御子も助かったからでしょう?」
「ああ、それもある。
……なあ、秀子。連れ戻されたおまえに監視が付いたのは半年ばかりだった。
なぜ今まで飛び出さなかった?」
「共に幸せになりたい。それだけです。
確かに遠回りはしましたけど、無駄な時間であったとは思いません」
「共に、か。おまえは嫌っている相手の幸せをも考える菩薩なのかね?」
「人間ですわ。それも、罪深い女です」
「それなら、なぜ、俺に情けを掛けようなどと思った?」
「お聞きになりたい?」
「いや、わかってる。だがな、秀子、俺の気持ちはおまえとは違う」
「………」
「俺はおまえが好きだ」

秀子の目が見開かれる。
そんなに意外そうな顔をするな、と彼は彼女を抱きしめた。
「好きだ、秀子。……なぜ、出会うのが今でなかったんだろう。
出会ったのが今なら、俺の妻になってくれと乞えるのに」
日本男児が、帝國陸軍大尉ともあろう者が、みっともない、と頭の片隅で何者かが叫んでいたが、熱い涙が次々と零れ落ちた。
「好きだ……」

竜胆とアキアカネ

三嶋家の出戻り娘は毎朝被災者のための炊き出しにやってくる。
豊浜町一の名家の娘であるが、結婚には失敗したという。
ただすこぶる美人であるため、出戻りでも彼女を望む求婚者には不自由しない。
彼女はその中の八重山松吾を選び、東京が落ち着き次第そちらに移るのだと言っている。
松吾の望みを叶えるために、小さな男の子を連れて。

三嶋秀子以外に毎朝炊き出しに来るのは、本郷燿と小姑の桃子だが、大変仲がよい。
看護婦にして助産婦でもあるという男勝りの職業婦人、桃子だが、近々「男勝り」を見込まれて嫁に行くのだと笑っていた。

手がお留守になりがちな秀子や桃子の脇で、燿はせっせと働いている。
2人のような語るべき夢は「ない」と言うけれど、桃子に「お兄ちゃんに寄り添っていつまでも、でしょ」と指摘されて頬を染めた。


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