「婚約」


大正四年三月も終わる。
光や風は春の盛りを伝えていた。

河川敷に二人の青年が立っていた。
ひとりは、豊浜中学校を卒業し、四月から東京で寮生活を始める岡宮雅之。
もうひとりは、豊浜工業学校本科三年生になろうとする八重山松吾である。
八重山は陽光まばゆい川面を見つめたまま、じっとしていた。
岡宮は八重山に背中を向けられたままで、溜息を吐いた。

「何とか言ってくれよ、八重山君。僕を卑怯者だと罵ってくれ」

二人とも、この町一の名士の一人娘を愛していた。
今はそういう身分の呼称こそないが、士族の娘らしい女性である。
彼女の仕草はあくまでも奥ゆかしいのだが、ひとたび口を開けばどれほど進取の気風に富んだ女性か分かるのだった。
彼女は何も言わないし、それらしい行動を取ることもないが、どうやら八重山を好きなのではないかと岡宮は思っている。

八重山松吾は職人の息子である。
進歩的な職人で、徒弟制度ではなく、工業学校で学ばせる方を選んだ。
また、彼も豊浜中のメンバーに混じって漕艇の活動をする風変わりな男だ。
寡黙である。
だが、彼が誠実な男であることは友人として付き合うほどに分かっていった。
彼女、三嶋秀子が岡宮ではなく、八重山に惹かれている理由はよく分からない。
とはいえ、八重山に惹かれる彼女の性質は好ましいものだと思う。
つまり、秀子は男の身分や資産といった外的な物よりも、彼の内面を重視するということだからだ。
だから、八重山を好きな秀子の気持ちごと受け入れられると思う。
ほんの少しでも、自分を好きになってくれる気持ちがあるのなら、大人達がこだわる条件の全てを無難に満たしている自分が秀子と結婚するのが順当だと思う。
勿論、八重山から引き離すことの償いはする。
秀子が強く希望する女子大学に行かせてやりたいし、彼女が望むなら一緒に留学したいとも思う。
ただ、そうしたことも男の側だけで全てを決めたくないのだ。
彼女が自分の妻になることを全く希望しないのなら、彼女の父には何も言うまいと決めていたのだ。

そのように、彼は秀子の高女卒業まで待つつもりだった。
誓って誰にも秘密を打ち明けてないのだ。
それなのに、秀子は可愛らしい口を尖らせた。
「私の返事を待つと仰ったのは嘘だったのですか?」
彼女の父が彼との結婚を命じたのだという。
時期は岡宮が東京から一時戻る八月。
その間に秀子の嫁入り支度を整える手はずだという。
万一すぐに秀子が妊娠しても、卒業には問題ないはずだからだ。
彼女には父親に従うよりほかはないものの、岡宮が約束を違えたといって怒っているのであった。

八重山はまともに岡宮を見なかった。
「似合いとか、不似合いといったことくらい、僕にも分かりますよ。三嶋さんと岡宮さんは似合いです、それは動かしがたい事実だ」
自分に言い聞かせるようにゆっくりと言ったのだった。
「すまない」
岡宮が無念そうに言った。

「似合い」なのは外的な条件である。
家柄が釣り合い、年頃が釣り合っているというだけに過ぎない。
男としての内実を問われたら、どちらが「似合い」「不似合い」かなど決められないはずだ。


三月末。
秀子は婚約者を見送りに停車場に来ていた。
しばらくは怒っていたが、このようにしかなるまい、とも思われた。
いずれにせよ結婚するのだから、あまり長く喧嘩をするわけにも行かないだろう。
少女の恋は胸の中で殺さねばならぬ。
この時は秀子とお供の燿ばかりでなく、漕艇部で交友の深かった本郷荘一朗や八重山松吾も見送りに来ていた。

東京から岡宮の従兄弟が着くはずだ。
先ず従兄弟達を迎え、その後に岡宮が東京へ向かうのだった。

兄の方は陸軍軍人の西条功喜少尉で、岡宮にとっての本流でも期待の人物である。
弟の方は西条淳之助といい、兄よりも一〇歳も年下の少年である。
おそろしく頭のいい子で、この四月から中学一年生になる。
ところが、淳之助は家風に馴染まぬ子であったので、疎まれるところがあった。
今回のことは淳之助自身が
「岡宮の兄さんがいらっしゃるなら、代わりに僕が豊浜に行ってもいいな」
などと冗談で言ったのが原因である。
結局本気にされて、岡宮と入れ換えになるのだった。

汽車が着くと兄弟が降りてきて、まっすぐ岡宮のところに向かってきた。
「お出迎え、ありがとう」
兄の方が岡宮に声を掛けた。
岡宮はやや緊張気味に従兄に礼をした。
「こちらの方々は?」
「中学の漕艇部の友人達と、婚約者です」
「ほう」

西条功喜少尉はこの時初めて秀子を見た。
地方都市には不似合いなほどの美人である。
秀子は会釈をしたが、そのまま俯いてしまった。
「どちらのお嬢さん?」
「三嶋家の一人娘です」
岡宮が簡単に答えた。
「ああ、こちらの城代(家老)のご縁だとかいう」
「そうです」
功喜は秀子の真前に向き直った。
「是非ご自分で答えていただけないだろうか。まだ結婚したわけでも無し。君にそうまで無視される謂われはないんだが」
秀子は酷く驚いて相手を見上げた。
初対面の男と軽々しく口をきくことの方が、むしろ戒められてきたのである。
「失礼を致しました。申し訳ございません」
秀子はもう一度頭を下げた。
「三嶋秀子と申します」
「ほう、秀子さん。綺麗なお名前だ」
秀子は恥じらってまたもや俯いてしまった。

汽車の入線が告げられた。
「岡宮さん」
今まで黙っていた八重山が口を開いた。
「ご活躍を祈ってます」
「八重山君」
岡宮が安堵の笑顔を見せた。
「ありがとう」

岡宮が旅立つと、西条兄弟は岡宮の家へ向かうので、そのまま別れた。

「従兄弟殿の弟君の方が岡宮さんに少し似てるかな」
荘一朗が中学の下級生になる淳之助の噂をしようとしたところ、秀子が制した。
「八重山さん、どういうことですの?」
八重山は何を聞かれたか分からないという顔をした。
一度は収めたはずの怒りがこみ上げてきた秀子である。
「あなたと岡宮さんの間にどんなお話しがあったのか存じませんが……。あなた方は一体、私の何だというのですか? 私の知らないところで、私をやりとりなさるなんてあんまりだわ」
「あなたをやりとりだなどと、それは誤解です」
「誤解だと仰るなら、きちんと説明してください。何もかも私の知らないところで決まってしまいました。あなたにしろ、岡宮さんにしろ、もう少し開明的なかただと思ってましたのに。私、いきなり婚礼の日取りを知らされたんですよ」
「申し訳ない、三嶋さん。本当に具体的なことは何一つ知らないのです」
「ええ。具体的なことは私の父と岡宮のおじさまがお決めになったことでしょうね。でも……」
「三嶋さんは岡宮さんに何かご不満でもあるんですか?」
「……問題をすりかえてらっしゃる。ずるいわ。そうすれば女は黙るものだと思っておられるのね?ええ、岡宮さんに不満はありませんわ。いいお友達でしたもの」
「それならよろしいじゃありませんか。誰が見たってお似合いですよ」
「……そういうことですか……わかりました。……」
秀子はうなだれた。
荘一朗はハラハラしているのだが、どうしていいのかわからない。
八重山は目を逸らしたままだ。
「私、帰ります。……燿ちゃん、帰りましょう」
秀子は供の少女の手をぎゅっと握った。

秀子と燿が馬車で帰るのを見送って、荘一朗と八重山は歩いていくことにした。
「僕にも何があったかは分かりませんが、三嶋さんのお怒りはごもっともといったところですな。僕は新しい女の味方なのでね」
荘一朗が断言した。
「君に何が分かるんですか、本郷さん?」
「三嶋さんが岡宮さんを友達の一人としてみておられることです。彼女にはもっと慕っている男がいるということでしょう? 八重山さんにはどなたかお分かりですか?」
荘一朗は何を知っているのか?
八重山は見透かされているような気がした。
「わかりませんよ、女心なんて」
「僕は分かります。そりゃ、古い女は分からないが、三嶋さんのような新しい女なら分かりますよ。……八重山さん、僕はもっと勉学に励んで必ずや工場を大きくしてみせる」
「は?」
「父祖の財で贅を尽くしている輩に成金などといわせない。連中は屑ですよ」
「………」
「そんな屑どもの価値観をありがたがる必要なんかどこにあるんです? 家柄? 旧の身分? ばかばかしい、そんなものはもう終わりですよ」
「だが、現実にはある。むざむざ不幸にはさせたくない」
荘一朗は肩をすくめた。
「でもね、八重山さんを睨みつけた彼女はとても可哀相だった」

荘一朗はどう見たのか、気にはなったが聞けなかった。
最近まで自分自身ですら気がつかなかったことなのだ。

河川敷にはたいてい女学生がまとまって見物に来ていた。
他の女学生から離れて、ひとりポツンと橋のたもとで気のなさそうなそぶりで立っていた秀子は最初から気になっていた。
豊中の生徒達は「いい家」の学生ばかりであったので、この女性の身元をよく知っていた。
つまり、彼には縁のない女性であったのだ。
恥ずかしそうに帰ってしまう秀子に声をかけ続けたのが岡宮雅之であった。
彼以外の誰も秀子に声を掛けることなどできなかった。

岡宮雅之は好青年である。
家柄もいいし、頭もいいし、それでいて徹底した実力主義者で、下級生の荘一朗はもちろんのこと、他校生の八重山とも「良い漕ぎ手」というだけの理由で親しく付き合っていた。
最初から岡宮と秀子はよく似合っていたのだが、この二人を見つめる時、どうして悲しい気持ちになるのか自分でもさっぱり分からなかった。

そうした八重山の視線に気が付いたのか、いつからか秀子がはにかんだように微笑むようになった。
自分だけに向けられる微笑みだから、彼女にはどんどん惹かれていった。
それからの八重山は自分に言い訳ばかりしてきたように思う。
浜の観音様を信仰する気持ちとどう変わるのだろうか、とか、心に秘めて想うことは俺の自由であろう、とか。
ところが、そうした努力も虚しく、今度という今度は認めざるを得なかった。
岡宮と秀子が結婚するという衝撃は彼を完全に打ちのめしたのだ。

わかっていた、似合いだとさえ思っていた。
自分が秀子を求めていたなどと、そんなに思い上がった男だなどと、今まで夢にも思わなかったのだ。


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