「横恋慕」


淳之助はすぐに漕艇部に希望を出した。
彼は荘一朗が感じたとおり、少し岡宮に似たところがあった。
身分や家柄に拘らない点である。

「三嶋秀子さん、確かに麗しい。だが、僕としては彼女が連れているあの子の方が気になります。実に可愛らしいと思いませんか?」
と荘一朗に同意を求めてきた。
次男とはいえ、彼は華族の子どもである。実際に彼は燿のような貧農の娘など見たことがなかったはずだ。
利発な彼は周囲の人間の器を見抜くのも早く、同意してくれそうな人間は荘一朗くらいだと判断したものらしい。
「可愛らしいですよ、燿ちゃんは」
「あき、ですか」
「燿と書くそうです」
「ふーん。田舎の農家としては教養ある親ではないか」
淳之助は納得したように頷いた。
「何とか話をしたいなあ」
「大抵僕らが片付け終わる前に帰るからね。三嶋さんはいまだに恥ずかしがっているんだよ」

桜が散り続ける中を帰ろうとしていた秀子と燿であったが、
「ちょっと待ってください」
少年の声が2人を止めた。
堤防を駆け上がってくるのはまだ短パン姿のままの淳之助である。
「酷いなあ、覗くだけだなんて」
「の……覗く、ですって?」
秀子も燿も真っ赤になった。
「ごめんなさい、お気を悪くなさってたのね。もう来ません」
彼女達が来なくなってしまったら、漕艇部の全員に恨まれる。
淳之介は慌てて訂正した。
「そうじゃないんです。みんな、お二人がここにいらっしゃるのを楽しみにしてますしね。それに、僕としては東京の異母姉と似た年頃の方とお話ししたかっただけです。それから、初めてあった時に兄があなたを困らせたでしょう、あれを謝りたくて」
「あのことなら気にしてませんわ。驚いただけ」
「兄の言うことなんか気にしなくていいんですよ。女の人を困らせるのが趣味です」

着替え終わった荘一朗と八重山が大急ぎで堤防を上ってきた。
「西条君、何て姿だ」
「八重山さんや本郷さんなら恥ずかしいだろうが、僕はまだ平気ですよ。それに三嶋さんも燿ちゃんも今まで僕らのこの姿を見てるんだし」
淳之助以外の四人が顔を赤くした。おそろしく頭がいいのだが、まだ中学一年生では恥じらう気持ちはないのだろうか。

「あの……八重山さん、先日はごめんなさい。私ったらだだっ子みたいで……」
秀子から謝られた時
「いや、謝らないでください、三嶋さん。無かったことにされるのは辛い」
咄嗟に八重山は本音をもらした。
秀子は凍り付いたようになってしまった。
荘一朗と燿は息を詰めている。
淳之助は自分が何のキッカケを与えてしまったのか、よく分かっていない。


春の土曜日のことである。
「秀子、明日大事なお客様がいらっしゃるのだが、お点前を頼みたい」
父がこのように依頼することは珍しい。
秀子は快く引き受けた。
何故、秀子の接待が必要なのか、彼女は考えもしなかった。

翌日、玄関に客を迎えて、秀子は逃げ出したくなった。
西条功喜少尉であった。
初対面で叱られたので、この人には「怖い」という印象しかない。
いや、叱られたせいだけでなく、値踏みをするように見られた段階で恐怖心に駆られた。
岡宮も含めて、彼女の友人達は少年の繊細さを色濃く残していたから、若い男性とはそういうものだと思っていた。
この人には「人間の種類」が違うといったものを感じる。

接待して、西条少尉の洗練された身のこなしや、上品な会話の運びには感心した。
そうした意味でも、彼は「人間の種類」が違うのだった。
功喜は秀子を
「このような田舎に置いておくには勿体ない女性」
と評した。
それはそれで光栄なことであった。


岡宮との結婚は八月半ばに予定されている。
東京では神前の結婚式の後、料亭やホテルで宴会をし、そのまま「新婚旅行」に行くというスタイルが流行しているという。
岡宮も秀子もまだ学生なので、あまり派手なことはしたくないと思う。

仕方ないのだ。

八重山は秀子が好きなのだと認めた。
川縁の桜の木の下で、耳朶まで真っ赤にして認めてくれた。
それでも、秀子を将来の妻として考えられないのだと言った。
秀子は涙ながらに、自分もまた八重山松吾を慕っていると告げたのだが、彼の気持ちを変えることはできなかった。

秀子が結婚するとなると、燿の立場も危ういものとなる。
実家から女中を連れて行くのはよくあることだ。
事実、三嶋の奥方はそうしている。
ただ、そうすると、婚家の使用人達は表面的には奥方に従うものの、いつまでも本当には馴染んでくれない。
だから、ある程度慣れたら実家の女中は帰してしまった方がよいかも知れない。
聡明な秀子なら、女中を連れて行くにしてもほんの一時期だろうと思われた。

燿は幸い主人の秀子にはとても気に入られている。
旦那様も彼女を雇い続けることに反対はしないだろう。
だが、肝心の奥方が彼女をどう考えているのか分からない。
女中頭も大変心配だと言っている。
誰かが奉公を終えて嫁入りすると、奥方は実家のつてで女中を呼ぶことが多いのだという。
三嶋家の女中を辞めさせられたら、実家に帰らなければならない。
村で太助の進学準備金を貯めることは不可能だが、よしんばできたとしても両親のどちらかに見つけられてしまうだろう。
両親とも小学校の六年間でさえ贅沢だと思っているのだから、農林学校などといったら目を回しそうだ。

女工として働きに出る方が良いだろうか?
欧州の大戦が長引いているお陰で、どこでも景気がいい。
女工の口なら簡単に見つけられるだろう。
もし女工として働くのにしても、できればこの豊浜町に残りたい。

三嶋家の女中を続けられたとしても、不安の種はある。
燿はこのところ随分女らしくなったのだ。
秀子が時折「お腹が痛い」と言って伏せっていた理由も理解した。
女中の仲間が彼女に手当の仕方を教えてくれた。
燿の立場では伏せってなどいられないから、痛みを堪えて懸命に働いた。
こうなってくると下男どもがちょっかいをだしてくるようになった。
今はまだお嬢様付きなので特別な立場にあり、下男どもも卑猥な言葉で燿をからかう以上のことはできない。
だが、通常の下働きになってしまえば、彼女を守ってくれるものは何もないのだ。
不安を抱えたまま、秀子が嫁入りするその日まで、一心にお仕えする他はない。


五月末、荘一朗が豊中の陸上運動会を見に来ないかと誘いに来た。
思えば、明治天皇、正憲皇太后の喪で、一昨年も昨年も殆どの行事が中止されていたのだが、今年は実行できるはずである。

「いやです。殿方の運動会を見に行くだなんて」
「僕の雄姿を是非お見せしたいのですが。それなら、燿ちゃんだけでも」
燿は首を振った。
とんでもない!
奉公人の分際ででかけられるわけがない。
「ご覧なさい、三嶋さん。君が行くと言わないから、燿ちゃんも出掛けられない」
「本郷様。私のせいにしないでください」
燿が小声で抗議したので、秀子は「おや」という顔をした。
「燿ちゃんは本郷さんになら言い返せるのね?」
燿は俯いてしまったが、彼女が恥じらっているのは誰にも分かるほどだった。
「わかったわ。少しだけなら伺います。でも家の者に何て言おうかしら? こんなはしたないこと」
「黙っていらっしゃい。それに豊中男児の姿ははしたなくなどありませんよ。高女は? 今年はあるのでしょう?」
「秋に予定されてますわ。でも、見にいらしたりしないでね」
「是非伺います」
「いやです。恥ずかしいわ。それに……土手の上に中学や工業の学生さんが鈴なりになって、みっともないったら」
「手厳しいな。正式に入場させてくれればいいのに」

高女の運動会が開催される時には「岡宮秀子」である。
果たして参加できるのか?


陸上運動会当日、秀子はなるべく目立たないところで見物していた。
荘一朗は「僕の雄姿」と自分で言うだけのことはある活躍ぶりだった。
あまりにも身近で、秀子は今まで気にも留めてなかったが、これなら彼に惹かれる下級生も多いのではないか。

午後から見物に来たのに、競技が全て終了する頃に荘一朗に見つかってしまった。
燿が頬を染めて俯いたから、きっと目があったのだろう。
はたして荘一朗はこちらへ向かってくる。
と、その前に一人の女学生が飛び出し、彼に何かを押し付けるように手渡すと、そのまま去ってしまった。
「君、おい、君!」
荘一朗が二、三歩追いかけたが、彼女は立ち止まらなかった。
彼は手紙を手に持ったまま目をぱちぱちさせた。

「私、あの方知ってるわ。三年生よ。大胆ねえ」
秀子がつぶやいた。
高女の生徒が荘一朗に恋文を手渡す場面を目撃した燿は茫然としていた。

分かっていたはずだ。
荘一朗に相応しい女性も彼が好きなのだ、と。
荘一朗と秀子が幼なじみらしい軽口を交わしているのを、燿は上の空で聞いていた。


梅雨が明けると毎週のように川の上での練習が見られる。
一年生が乗る段になった時は、まだ淳之助の姿が見られた。
橋の下を通り過ぎていく時、淳之助は二人に向けて大きく手を振るので、大変に目立つのだった。
燿より一歳年少の淳之助なのだが、燿を見ると「可愛い」を連発するのだ。
周囲の同級生や上級生は驚いたり呆れたりするのだが、東京の華族の子弟には何も言えないでいる。

七月終わりには、岡宮が東京から戻るはずである。
秀子の結婚の衣裳もあとは仕立てを待つだけになっていた。
三嶋の家の中で、唯一、秀子にとってこの結婚がどういう意味を持つか知っている燿は、苦しい思いで過ごしている。
秀子はつとめて明るく振るまい、家の中は華やいだ雰囲気であった。


岡宮雅之帰郷の直前、二人の結婚は中止になった。

岡宮の家の本家に当たる西条の嫡男、西条功喜中尉が特に秀子を望んだというのが、その理由である。

三嶋の当主はとにかく衝撃を受けていた。
親がお膳立てした結婚ではあったが、あの二人はもともと親しかったのだ。
東京へ発つ岡宮を見送りに行った日、秀子が自室で泣いていたことを女中頭から聞いていた。
本人は否定するが、秀子はれっきとした「新しい女」である。
だが、祝福されるべき男女の間柄なら「新しい女」は大変良いものだ、と当主は密かに思っていた。
自分自身、娘は愛しいが、妻に親愛の情はない。
かつてはあったのかもしれないが、全く心を開こうとしない妻であるので、彼の方もいつしか情感を抱けなくなってしまった。
しかし、この娘ならば、岡宮の長男も末永く可愛がってくれるだろうと思って、安心していたのだ。

西条功喜は確かに秀子を褒めていた。
しかし、あの目は心から愛しいと思う女を見る目ではなかったように思う。
勿論、東京の華族の家に嫁入りするのは名誉なことであるし、秀子ならば立派な奥方になるであろう。

容貌の美しさがとかく目を引くのだが、当主の密かな自慢は娘の頭脳の方にあった。
少なくとも自分より頭の良い娘だと思う。
男に生まれていたら、間違いなく「一旗揚げてこい」と東京へ送り出した。
女ゆえの制約がなければ、今まで婚約者だった岡宮の倅より上だと思う。

何か裏があるには違いないのだが、相手が相手であるだけに、この話を受け入れないわけにはいかない。
秀子に結婚相手の変更を告げながらも、身を切られる思いである。

「西条様……」
秀子が自分の腕を抱きしめた。
「私、あの方が怖いんです。お父様、とっても怖いの」
娘の言うことは分かるが、
「何を言うか、秀子。おまえはどこに出しても恥ずかしくない女だ。西条様もおまえを取って食おうというわけではない。嫁として欲しいと言っておられるのだ」
と諭した。


嫁入りの準備にかかるから、ということで、卒業まで待ってもらうことにした。
娘の怯え方を見ると、できる限り延期してやりたかったのだが、それが最大に引き出せた譲歩だった。


HOME小説トップ「恋しきに」1次へ

inserted by FC2 system