「幼い女工の話」


豊浜高女の運動会に正式に入場できる男子は、生徒の家族のみである。
2年東組在籍の本郷桃子の兄、荘一朗ははじめて高女の運動会を間近で見ている。
彼の友人、八重山松吾と西条淳之助は堤防の上から見物である。

東西(白組と紅組)の主将が選手宣誓をした。
どうやら三嶋秀子は東軍の主将であるらしい。
女子の運動会とは言っても、男子の運動会とさほど変わりがあるわけではなく、それこそ初めて高女の運動会を見る淳之助は拍子抜けした。
彼らのお目当ては秀子であり、義理で友人の妹である桃子を応援すると言ったところだ。

すぐに各学年の百米競走が始まった。
秀子は意外に速く、ゴールテープを切っていた。
「女子も午後に決勝があるんですか?」
「あるはずですよ」
「過酷ではないかな?」
「僕も最初はそう思ったが、今では考えを改めました。大和撫子がか弱いのは我々の前でだけのようです」
午前中の競技は順調に進んだ。

昼近くになると、五年生が一斉に校舎の中に入っていった。
下級生の何人かは切ない溜息を洩らした。
だが瞳は輝いている。
そして、一様にそわそわとしているのだ。
この異様な雰囲気に荘一朗は圧倒されそうになった。
三年前に見たことがあるから、これから何が始まるか分かっているのだが、校庭でのことは全く分からなかったのだ。

やがて五年生達が出てきた。
片方は色とりどりの着物であり、もう一方は袴姿である。
彼女達が普段に着ていた女袴なのだが、着物と袴がちょうど半数ずつであるためか、娘と若衆といった印象である。
父兄席の荘一朗も、堤防の上の松吾と淳之助も、まずは「娘」の中から三嶋秀子を捜したのだが、見つからない。

下級生の視線は何人かの五年生に集中しているらしい。
桃子が乗り出すようにして上級生を見ているのが分かった。
「あいつ、恥ずかしいなあ」
横にいる三嶋家の人々の手前、妹のはしたなさがことさらに恥ずかしく感じられた。
しかし、三嶋の当主も奥方もそれどころではなかった。
彼らの視線の先に……いた!

秀子は意外にも「若衆」の方の役だったのだ。
彼女は長い髪を一つに束ね、結び目に白い紙を巻いている。
髪を結んだ位置がちょうど丁髷と同じ位置だから、ひときわ凛々しい若侍に見えてしまう。
蓄音機のボリュームをあげて『カチューシャの唄』がかかった。
秀子などの「若衆」役は相手の「娘」役に優雅に一礼し、向かい合って踊り始めた。
彼女達は思い思いに校庭中に広がっていくのであった。
秀子の組が移動するに連れ、桃子などの身体の向きも露骨に変わっていく。
音楽が終わってしまうと、五年生も下級生も一斉に拍手をした。

秀子は相手にもう一度礼をし、父兄席の方にやってきた。
父兄席の案内をしていた生徒達がざわめいた。
「おねえさまがこちらにいらっしゃる」
「私、生涯忘れませんわ。おねえさまのあのお姿」
荘一朗の後ろでも生徒達がささやき合っていた。
秀子は下級生に構わず、燿からハンケチを受け取ると額を押さえた。
「おねえさま!」
1人の下級生が懇願した。
「お着替えにならないでください」
「そうですわ。そのままでいらしてください」
何人かが同調した。秀子は声の主の方を向いた。
「そんなに困らせないでください」
確かにいつもの秀子の話し方なのだが、荘一朗にも「気障な男」と感じられた。
それから秀子は着替えるために校舎の方へ向かうのだが、わざわざ父兄席から下級生の応援席の前を大回りしていった。
校庭を横切らないように気を遣っているのか、下級生へのサービスなのか、よく分からない。

下級生の応援席の向こうは堤防で、きょうも中学や実業学校の男子生徒が鈴なりである。
秀子はふとそちらの方を見やった。
次の瞬間、美しい若衆は美少女に戻っていた。


この年、燿は他の奉公人と同じように暮・正月の休暇をもらうことにした。
燦が帰って来るはずだ。


豊浜駅の商店街では女工達が休日を楽しむ姿が見られた。
隣村の紡績工場の女工と思われる人たちも何人か見た。
それから、「門限に遅れると一筆書かされるから」と、裾のまくれるのも構わず、走って寄宿舎に帰る女工も見たことがある。
豊浜町やその周辺ではどんなに若くても尋常小学校を卒業した人ばかりだが、燿は彼女達の姿に燦を重ね合わせて見ていた。

三等車に乗り合わせたのも、そうした女工達が多かった。
工員は近在の者が多いのだが、女工はかなり遠くからやってきている。
途中で座ることができた燿は、ぼんやり窓の外を眺めていた。

東京に着くと一旦降り(出口専用)乗り換えるのだ。
汽車の中はますますごった返している。
狭い空間の中で宴会が始まった。
年の給金を手にして、家族への土産を持って、幸せいっぱい気分の陽気な者達が、郷里に帰る心楽しさを分かち合っているのであった。
同じ方向へ向かう見知らぬ乗客達が唱和して、三等車の中全体が盛り上がってきた。

今回燿は停車場前の宿に泊まった。
一日中汽車に乗っていて身体は疲れていたが、風呂敷を開くと幸せな気分になった。
彼女もまた家族に土産を見繕ってきた。
燦はもう家でくつろいでいるだろうか?
燦にだけ土産を用意しなかったが、一緒に食べようとミルクキャラメルを持ってきていた。

村に帰ったら……?
この春、村始まって以来の多くの子どもが町へ働きに出たのだ、以前のような騒ぎになることはあるまい。

馬車を降りて歩く。
今回彼女は靴を履いてきた。
和服に靴を履くと「高女の生徒のようだ」と言われた。
この靴は本郷桃子から譲り受けた。
いくらも履かないうちに小さくなったからと言うのだった。
燿の方が少し背が高いのだが、やせっぽちであるため足も小さいらしかった。

燿が戻った時、実家では新年を迎える準備がろくにできていなかった。
父は具合が悪いのだと言った。
燿は小学三年生の太助を「長男なのだからしっかりせよ」と叱った。
ただ、気にかかるのは、燦がまだ帰ってこないことだった。
豊浜から汽車を乗り継いできた燿よりも遅れるとはどういうことだろう?

燦が家に着いたのは未明のことだった。
家に入ってくるなり、燿のすぐ脇にバタン!と倒れ込んだからわかったのだ。

「燦?」
「ねえちゃん? もう、ねえちゃんがいる、早かったねえ」
どうしたの、と聞く間もなく、妹は寝息を立て始めた。

朝、米も味噌も無いことを確認し、燿はガッカリした。
二人で仕送りしているのに、このていたらく。
もっとも父の具合が悪いのだから、やりくりの悪さのせいばかりでもないのだろうが。
麦ならあった。
「アキ、何笑ってるの?」
母がやってきて聞いた。
燿は思い出し笑いをしていた。
「オート麦と砂糖と牛乳でポリッジを作ったことを思い出したの」
口に出したら、なお可笑しくなった。
「三嶋家でポリッジを作ったことがあってね、お嬢様は平気で召し上がるのだけど、……旦那様と奥様のあの時のお顔ったらなかったわ。奉公人達も以下ならえでね、特にいつも澄ました女中頭さんがブーッと噴き出すのを見て、笑いを堪えるのが苦しくって大変だったのよ。結局ポリッジを食べたのはお嬢様と私だけ。あの時はいやってほど食べたわね」
母は訳が分からなくて娘を見つめていた。

そういえば、燿にとって無性に食べたくなる(でも特別な時だけの)キャラメルだが、大人達にはおいしさがわからないらしいのだ。
そう、キャラメル!
何とか理由を付けて燦と二人で食べると決めている。

だが、家にあった物だけをつっこんで煮た雑炊を食べながら、燿は大変悲しい気分になった。
彼女は今や西洋料理まで作れるのだし、美味しいお茶を煎れることにも、ミシンの扱いにも自信を持っている。
この家で、いや、この村全体を見渡してみても、そんなことができるのは彼女しかいないだろう。
だが、それが何だというのだ?
誰も、お茶だのミシンだのの存在すら知らないこの村にあっては、何の役にも立たないではないか。
全ては、太助達が農林学校に行って、新しい農業技術を覚えて、頭の固い大人達を説得して、成功して村を豊かにする……
その後でなければ、燿の知識など無意味なのだ。

意識を失ったように眠っていた燦が目を覚ますと、燿は遠縁に当たる家へ餅を分けてもらいに行こうと妹を誘った。
母は、燿が行けば沢山分けてもらえるだろうと言うのだった。
ガラス窓に慣れた燿には、おそらくは燦にも、実家の暗さはどうにも不便である。
だから、燦が呼ばれて、外に出てきてはじめて分かったのだ。
小さくなっている?
そうではない。
三嶋家へ奉公に行って、燿は随分背が伸びたのだ。
体つきも女らしくなった。
ところが、妹の燦は以前に会った時と少しも変わっていないのだった。
相変わらず小さく痩せこけていて、目ばかりがぎょろぎょろしている。

しばらく歩いたところで、燿は妹にキャラメルを渡した。
「何?」
「え? 見たことないの? 町に出れば買えますよ」
「町になんか出られなかった」
「日曜日は?」
「だいたい寝てた」
そうか、燦はまだ幼くて小さいから、豊浜の女工達のように活動できないのだろうと思った。
妹はボソボソと続けた。
「いつも星の見える頃から起きて、夜までずっと立ちっぱなしだから」
「それって、工場法違反じゃないの?」
燿は荘一朗から聞いたことを思いだして言った。

燿は荘一朗の頭の良さは特別だと思っている。
荘一朗は元々優秀だが、上昇志向が人一倍強いからますます立派になるのだと、秀子が言っていた。
無知な燿ではなく、高女の生徒さん達があんなに憧れている秀子がそういうのだから、荘一朗が特別な人なのは間違いがなかった。
そういうわけで、燿は荘一朗の言うことなら、一から十まで正しいと信じている。

「よくわかんない」
燦の応答の頼りなさに、燿の不安はふくらんでいった。

たしかに荘一朗は正しいのだが、彼は燿に工場法の教授をしたわけではなかったから、言っていないことも多くあった。
工場法は帝国議会で成立したのは明治四四年のことである。
保護職工と女工は深夜労働をさせてはならない、一日の労働時間は一二時間まで、女子は産後五週間まで就業させてはならない、等の規則がある。
しかし、その施行は大正五年からのことである。
工業の町豊浜の場合、この好景気に悪条件の職場では工員や女工が集まらないこと、比較的豊かな地域で大抵の子が高等小学校まで終わっているといった特殊事情が存在した。
そのため、工場法施行前から違反になりそうな工場は一つもなかったのだ。

この地域の事情は全く逆であった。
女子や二男、三男など、むしろ低賃金であった方が親たちには喜ばれた。
長男が働きに出てはかなわないからである。

燦もキャラメルを口に入れて「美味しい」と涙を流した。
燿は漸く微笑んだ。
「どうせ寄宿舎にはいるのなら、こっちでも豊浜でも同じ。ねえちゃんと一緒に豊浜に行こう?」
「ん……でも、何かあったら駆けつけられるし……。おら、昨晩、歩き通したんだもん。馬車が終わっちまってて、ずっと、歩けたよ」
何ということだろう。
秀子が嫁いだ後も豊浜に残れないだろうかと、燿はそればかりを考えてきたのに。
「ごめんね、燦。ねえちゃんばかり勝手だったね。それなら、代わろう? ねえちゃんがここで家族の面倒を見るから」
「だめだよ、ねえちゃん。おら、ねえちゃんみたいに頭が良くないもん。ねえちゃん、稼いでよ」
どう話してみても、結果は同じだった。

遠縁の家はそれなりに正月の支度をしている様子だった。
申し出てみると、農夫は2人をジロジロと見た。

「本家のお女中」がどちらの娘かは一目で分かる。
村で最も愚鈍な夫婦に、どうしたわけか村で最も利発な娘ができ、「大した出世」をしたのだという評判がある。
この娘の親も、娘の器量の良さを誇りにして「そのうちどこかの旦那を引っかける」というのである。
話半分で聞いていたものの、実際に娘を見ると、この娘が数年後に町の旦那衆の誰かの妾になるのはありえる話と思われた。
可憐である。
「いいですとも」
農夫は答えた。
親切にしておけば、おこぼれに預かる時も気が引けることがないというものである。


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