「佐山家の懊悩」


佐山美佳子の大学院進学希望は、両親にあっさりと承認された。
2人の子どもに大学を卒業させるつもりで貯蓄してきたからだ。
美佳子の弟、涼に資金を掛ける見込みは全くなくなった。

貪欲に突き進む姉と、何者にもなれない弟――
両親はすっかり慣れてしまった。
あの時には既に兆候があったのだ――と、父は思い返す。
美佳子のどこが悪いのよ?――母は納得いかない。

父親の友人が空手道場を始めた時、子ども達を通わせた。
美佳子が7歳、涼が4歳だった。
涼はめきめきと強くなった。そして、2ヶ月経った時に「行きたくない」と泣いた。
母親は「男の子のくせにだらしない!」と怒った。
美佳子は我関せずで道場に通っていた。ごく自然に、生活の一部として。
才能があるのかないのか分からなかった美佳子だが、彼女の方は楽しそうだった。
父親は早々に諦めた。
「涼は仕方ないさ。大きくなった時、男の子の方は心配あるまい。
むしろ女の子が格闘技を身につけておいた方が良いってもんだ」

父親の言い分に納得したものの、母親には涼が格闘技を続けないことは至極残念だった。
両親のどちらにも似ない綺麗な子である。
親戚一同に紹介した時は、無遠慮に母親に不審の目を向ける者もあった。
ただ、この時は姑(涼にとっては祖母)がしみじみと言った。
「この子はわしの兄さんにそっくりだよ」

満州で戦死したという姑の長兄は、役者のようないい男だったらしい。
姑は当時4歳か5歳だったはずだが、誰も問いたださない。
そうした事情もあり、唯一の男の孫であったこともあり、姑は涼を舐めるように可愛がり続けた。

小学校に上がった涼は可哀相だった。
姉の美佳子がおそろしく勉強のできる子だったのだ。
親戚の者に「みかちゃんは凄いよ、頭のいい子だ」とは何度も言われた。
だが、美佳子が幼児の頃は両親も取り合わなかった。よくわからなかったのだ。
小学校に上がって思った。最近の小学校はよく賞状をくれるんだな、と。
そして、弟の涼が入学して、美佳子がどう見られているのか、はっきり知るところになった。
お世辞を言われていたわけではなかった。
「佐山美佳子の弟」は妙な期待が掛けられていた。
涼自身は、可もなく不可もなく、運動神経が発達しているところだけが目立つ、ごく普通の子だった。
どんなに“いい先生”でも、1度は「なあんだ」という落胆の目を向けた。

特に小学3年・4年と受け持った担任は酷かった。
この先生に出会わなければ、涼は無邪気に姉を自慢にし続けただろう。
全校集会があると、前に出て「知事賞」だの「奨励賞」だのといって賞状や記念品を貰う姉は、弟の友だちにもよく知られていた。
「うちのねえちゃん、寝相は悪いけど、すげーんだぞ!」
そう触れ回るので、美佳子が涼の掛け布団を引きはがして反対側に投げてしまうことは、涼の同級生ならみんな知っていた。(その後、部屋を別にした。)
涼が美佳子のことを同級生に話さなくなったのは、小学3年生の9月2日からである。

9月1日。避難訓練が終わって、子ども達は我先にと帰っていった。
3年4組の教室には、涼と同級生が3人、それに担任がいた。
そこへ、友だちを連れて美佳子がやってきた。
「りょー、いるー?」
「あ、みかねえ!」
「あのさあ、今日ユッコちゃんちに寄ってくから、直接道場に行くって、お母さんに言っといて」
「うん」
それだけの、何の変哲もない、姉弟の会話だった。
お友達のユッコちゃんに「お待たせ」と声を掛けた美佳子を、涼の担任が呼び止めた。
「佐山さん。あなた、自分のことばっかりじゃなくて、たまには弟の勉強も見てあげなさい」
美佳子は人当たりが良いため、のんびりとした性格にみられるが、実際は勝ち気な娘である。
まして小学6年生の頭の回転が速い女の子は容赦がない。
「先生を差し置いてそんなことできませんよ。だって、先生、プロでしょ?」


中学1年生まで、涼の学校の成績は低迷を極めた。
「体育バカ」と言えば、涼のことだった。
親の言うことも聞かなくなった。

中2の時、美佳子が涼に希望を与えた。
「高校は楽だよー。テストの点数とって、課題提出すればそれでいいんだよ。別の理由で評定が上がったり下がったりすることはないんだから」
涼はむしろ目上の人に可愛がられるタイプなのだが、すっかり神経質になっていた。
自分は生活態度などで評定を下げられる方だと思い込んでいたのだ。
理不尽は中学で終わりだと考えた涼は、それから美佳子に家庭教師を頼んだ。
年明けには「受験生のみかねえに悪いから、塾に行かせてくれ」と親に申し出た。

頑張った甲斐あって、涼は美佳子が卒業する高校に合格した。
祖母は涙を流して喜んだ。
どこそこの神様に願を掛けたとか、どこそこのお札を買ってきただのと、
延々と続く祖母の話を、涼はただ面倒そうに聞いていた。

涼が高校に入学した直後に祖母が亡くなった。
美佳子が関西の大学に進学したことも涼にはショックだった。
問題の多い弟から逃げ出したように感じたのだろう。
涼はしばしば夜に家を抜け出すようになった。

せっかく入学した学校をやめたいと言いだしたのは夏休み明けのことだった。
中学時代の友人が、高校を中退してぶらぶらしているのを知ったからだ。
夏休みの間、美佳子もほとんど帰ってこなかった。
空手の試合(インカレである)に出るからと帰省したのがほんの数日のことだった。
(美佳子の通う女子大では空手サークルはなく、単独で練習していた。
合宿などはなかったが、もしあれば、家に寄りつかなかったかも知れない。)

涼はもともとかなり無理をして授業を受けていたのだから、欠席がちになるともうどうしようもなくなった。
後期のクラス代表になった海野君という少年がしばしば迎えに来た。
心配してくれる海野君に、涼の態度は頑なだった。
やがて、涼の昼夜は逆転した。
ひきこもり、家庭内暴力……といった単語が母の頭の中をかけめぐった。

それらが現実のものにならなかったのは奇跡か、
あるいは美佳子が言い当てているのかも知れない。
「涼は本当はバカじゃないよ。自分で立ち直る力を持った子だよ」

結局、涼は高校1年生の終わりに中退し、現在もフリーターの生活を続けている。
美佳子は東京の大学院を受けるので、合格すれば帰ってくるのだという。


「ねえ、美佳子。キャンパスでもそのままなの?」
母は少々心配になってきた。
「ううん。キャンパスではこの上に白衣」

ご近所の人々が佐山家の噂を面白そうに語るのを知っていた。
美佳子が高校生の頃までは、そうしたことを気に病むのは家族中でも涼だけだった。

「美佳子ちゃん、いくら勉強が出来るったって、女の子じゃねえ」
「あそこの子は弟が綺麗なのよ。男の子が綺麗で、何の使い物になるやら」
「あんな綺麗な弟がいて、ご本人さんがガリ勉。可哀相に。あの娘は一生男に縁がないわね」
口では「いつまでも女らしくならなくて」と困ってみせた母だが、本心は相手を嗤っていた。
―おたくの娘なんか、高校生のくせにけばけばしい化粧をして、男をとっかえひっかえしてるじゃないのさ。
それでなくても不細工な造作をさらに醜く見せてるだけだってのに、鏡を見たことないのかしら?
うちの娘は真面目なの。それにずっと綺麗なんだから。―
ただ、さすがに美佳子も大学4年生で、心配にならないことはない。
―でも、美佳子はどうとでもなる。ひとりでも生きていける子だもの。
夫や舅姑に仕えて苦労するだけが女の人生じゃない。―



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