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[ ワークシェアリングがお得です 日本語の乱れは若い女性から始まった(?) 5月14日の日記 廃棄物はどこへ… 5月23日の日記 ]

(5月23日)今日はハードな内容です。
私は高校の方ばかりだったから苦労は少ないのですが、小中学校の教員は大変だなっていつも思ってます。
イジメや登校拒否。
子どもは先の見通しを立てないから、被害者をどこまでもどこまでもどこまでも、それこそ相手が死ぬまで追いつめておいて、自分が何をやってるか分かってないものです。
しかも、被害者側が正当な権利を主張し始めるのを恐れて、「チクるな」という勝手なルールを作ってしまいます。
でも、一緒に生活している親には兆候が分かるわけで。
子どもの登校拒否を助けるが如く、「今日は風邪で」「頭痛で」「腹痛で」「家の法事で」等々と嘘の欠席理由を申告し、物理的に引き離すしか手がないところまで来て初めて「何とかしてー」といってくる。
で、あとで「私が風邪って言った時、先生が嘘だと言ってくれなかったから、うちの子が登校拒否になりました。どうしてくれるの?」なんて開き直るわけです。
こじれてこじれて、手の施しようがなくならないと、本当のことは言わない親がいます。大人が子どもの非論理的勝手ルール「チクるな」を遵守してどうするよ?
まあ、まだ子どもルールで動いているのか? な教員もいるわけで。
最近はさすがにいないことを願うが、「苛められる方にも問題がある」ってのね。
バカ? アホ? タワケ?
人格・人権の否定を甘んじて受け入れねばならぬほどの、どんな重大な問題がありうるのだ?
逆に、苛めっこ側にそういった封建社会的特権を行使する、正当な理由があるのか?
「苛められる側にも…」のテイノウさんにあたったのが不幸なのですが、せめて子どもの前で言わさないようにしないとね。
特に小学生くらいだと喧嘩の強弱が価値観のすべてだから。
大人ならば、「人間には色々な面があって、様々な個性があるから、様々な基準が存在する」と理解してるから良いんです。「喧嘩に強い」以外にも「おばあちゃんの知恵」も「誠実さ」も立派な武器。
大人がどういうつもりで「苛められる側にも…」を言っても、子どもはイジメの奨励・正当な理由付けと受け取りますね。
最近はさすがに「苛められる側にも…」に納得するような親はいないでしょうね?
さて、今日はハードに毒づいてみたのですが、実は…。
金曜日に娘は同級生と些細なトラブルを起こしたんですね。実に些細。その証拠に、今日はその相手と仲良く遊んでたから。
でも、同じ事がもう1度起こったら、両者の力関係が固定化される恐れがあるんです。
どちらもドツキ合って喧嘩しているうちは心配ないのですが、勝ち負けが固定化してくると、強者の心がけ次第ではイジメに発展するんです。
だから、担任にトラブルの内容を報告したんですが……。正直、私も一瞬迷いました。こんな些細なことを担任に報告して、先方は随分大袈裟な母親だと思うだろうな、って。
その迷いが子どもを追い込む。(という自戒でした。)

5月21日

廃棄物はどこへ…

家電リサイクル法が成立した時、正直「何というアホな法律だろう」と思った。
家電の種類によって消費者が料金を負担していては、製造者にリサイクルを押し進めさせる圧力にはならない。
そればかりか不法投棄が増えるではないか。
法律施行後、案の定不法投棄が増えた。
産廃については時々ニュースで取り上げられるが、家庭ゴミについても頭の痛い問題がある。

家庭ゴミと言えば、自治体のゴミ収集も随分様変わりした。
細かな分類、複雑な収集方法。
自治体によって差はあるけれど、おおむねこの方向へ変化してきた。
年度ごとに細分化複雑化していくゴミ収集に即時対応し、家族と対立するのが主婦である。
ゴミを分別するのがカッコ悪いと思っている若い世代も困りものだが、それ以上に高齢者が問題である。

先日もスーパーで見てしまった。
高齢のご婦人が、スーパー備え付けのビニール袋(ロール状)をカラカラと引き出し、自分のバッグにこっそりと入れているのである。

ああ、おばあさん、ビニール袋が欲しかったら、うちのを差し上げたい。
だって、不燃ゴミは週に1度しか収集に来てくれないんだもの!
戦前に生まれた彼らはとても「もの」を大切にするのである。
しかも、昔はゴミ収集にうるさいことを言われなかったのに、今より環境は良かったのだ。
彼女はきっと、家に帰ればお嫁さんか娘がいるに違いない。

現代に多い高齢者だけの世帯、または高齢夫婦と未婚の息子からなる世帯の主婦は、ビニール袋を持ってきたりしない。
分別するのは彼女だからだ。
そしてたまに実家に帰ってくる嫁に行った娘とこんな会話を交わす。

娘:おかーさん、燃えるゴミはどれよ?
母:そこの青いごみ箱に捨ててちょうだい。
娘:あれ? プラスチックごみも入ってるよ。
母:あら、やだ。またお父さんだわ。何度言っても守ってくれないんだから、困っちゃう。
娘:またー。おかーさんはビシッと言わないんだからダメだよ。
ゴミ収集の矢面に立たないお父さんは、昔覚えた通りにゴミを捨てているだけなのに、たまに帰ってきた娘にまで文句を言われるに違いない。

それにしても、ゴミに関しては、入り口はとりあえず放置して、出口を締め付ける政策が多いような気がするのだが、気のせいだろうか?

出口ばかり締め付けて、そのうち社会全体が便秘になりやしないかと、心配になる今日この頃。


(5月14日)
急に冷え込んだせいか風邪をひいてしまいました。その間に世間では嫌な事件が…。
「調教」ゲームを実践してしまった事件の発覚です。
事件そのものも嫌ですが、世論を持っていく方向がまたぞろ「ゲームが、ネットが悪い」「出会い系なんかで軽く出かけて引っかかった女が悪い」ということで決着しそうなのが嫌です。
「元気でいいじゃないか」なんてバカ発言が出やしないでしょうね?
誰だってあほな願望はあるでしょうよ。特に優位な立場にあれば、それを悪用したいという誘惑には駆られますよ。
でも、実際には行動に移さずに、現実と折り合いをつけてきたでしょう?
みんなそうして生きてるんだもの。
ただ、それは折り合いを付けてるんであって、あほな願望をなくしたということじゃない。
そういうわけで、こっそりひっそり鬼畜系ゲームをやったりするんだし、メーカー側も隠れた願望を刺激して売り上げ増をはかるつもりですよね。
スポーツ新聞のえろ小説とどこも違いありません。(だって、ゲームとか新聞は媒体であって、劣情を煽る需要と供給はもっと上位だもん。)
日本のマスコミは強者に甘いのですが、それ以上に一般の人は甘い。「元気でいいじゃないか」が出てくる背景です。
尼崎事故の時、まずは「運転士が悪い」でしたね。労務管理の問題をマスコミ関係者でもない人が言うと、「なにアツくなっちゃってんの? あんた、左翼? ばっかみたい」という反応が必ず出てきていました。
企業が利潤を追求するのは当然のことですが、従業員や顧客の安全を犠牲にしても利潤優先ということではありません。
既得権益を守るために新興勢力の参入を阻んで、日本経済全体の力が弱くなったとしても、それを罪だと思っている人がほとんどいないのが現状です。
男性の劣情からおこる様々な事件に対して「ひっかかる女がバカ」は必ず出てくる反応です。
また、ネットと被害者が悪者にされて終わるのかな……。


5月11日

日本語の乱れは若い女性から始まった(?)

古い本を見つけた。「最近の若い女性は言葉遣いが荒っぽい」ことを非難した内容である。
当時、若い女性の一人だった私は反発したものだが、今は懐かしく思い出す。
中には「お婆ちゃん(姑)と娘の言葉遣いが同じ」だと嘆いたものもある。
流暢に女言葉を使いこなすのは、昭和一桁・10年代・20年代生まれの女性達であり、その上の年代も下の年代もてんでダメ――
この状況は当時も今も変わっていない。
それなのに、今や女性の言葉遣いが荒くなったと指摘されることすらないのである。

男言葉から分離した女言葉が作られたのは、標準語が作られた時期とほぼ同じだろうか。
しかし、それはすぐに浸透したわけではない。
生まれた村か、その近在の村から出ることなく、一生を終える女性が多かったからだ。
村の中では誰も新しい言葉遣いなど喋れない。
喋るどころか、そのような言葉遣いの存在を知っていたのは、女学校に進学する女性達くらいではなかっただろうか。

貧しい少女が故郷の村から離れるのは、女中か女工か、町へ働きに出る時だった。
私の祖母も女中奉公することによって、都市に住む中流階級の言葉を知った。
彼女の一人称は戦後もずっと「わっち」であった。
「わし」と「うち」と「わたし」が混ざり合ったような「わっち」を使う人を他に知らない。
「わっち」は、中流階級に触れたものの自らは下層だと認識している、彼女なりの答えだったのだろう。

戦後、高度経済成長期がやってきた。
集団で都会に就職した少女達や夫の転勤の都合で故郷を離れたヤングミセス達は、実に巧みに女言葉を操るようになった。

義母は当時高校生(新制高校)だった。
そこでの言葉遣いの指導は大変厳しかったそうである。
子どもの頃から慣れ親しんだ方言を使ってはならない――と指導されたのだ。

それからテレビが普及していく。
彼女達は、まるで画面の中の浅丘ルリ子さんのように、母親や姑達よりずっと女らしい言葉をよどみなく喋るようになったのだろう。

ところが、母親よりもテレビを見ているはずの昭和30年代組になると、少々女言葉の使いこなしがあやしい。
当時は、祖父母と同居するケースが決して珍しくなかったのだ。
そして、娘の側には戦後民主主義が根付いてきたお陰で、学校では男の子と肩を並べても構わないという意識がある。
先に紹介した「お婆ちゃん(姑)と娘の言葉遣いが同じ」家では毎朝こんな風景が展開されていたのかも知れない。

「幸子(仮名)、起きなさい。早くご飯を食べなさい。学校に遅れちゃうわよ」と布団を引っ張る母。
「あと5分待ってー」と目が開かない娘。
イライラした祖母が叫ぶ。「とっととおきろ、飯を食え」
人間は楽な方に流れるものだ。
この環境では幸子(仮名)は高校の女友達とは、子どもの頃から慣れ親しんだ方言や祖母のような言葉を使うのである。
テレビや母親の言葉は、デートの時のために覚えてはおくが、普段は使わないので、どうしてもあやしげになる。

昭和40年代生まれ以降になると、とっさに語尾に「わ」を入れることができない人が増える。
とっとこハム太郎のリボンちゃんのマネ「知りまちぇんわ」はできるが、「知らないわ」ではなく「知らないよ」と言っている。

やがてテレビの画面上でも変化が起きる。
松田聖子さんが、音を上げ気味に語尾を引っ張る、助詞・助動詞を強調する、独特の話法を披露した。
あまりの独自性に目(耳か?)を奪われていたのだ。
気が付いた時、彼女以降の若い女性タレントは男女共用の言葉で話していた。

女言葉の衰退ばかりでなく、日本語そのものが乱れていると憂慮されるようにもなった。
そこで日本語に関する著書が多く出るようになった。
だが、「声に出して読みたい日本語」では、ますらをぶりを強調する文体が多い。
また、NHK教育の「日本語であそぼ」では方言を保存しようとする試みも為されている。
方言には「男言葉・女言葉」はない。
方言の否定の上に女言葉が成立していた。
方言の復権により女言葉の消滅も早まるだろう。
日本語の権威達も、女言葉を保存するつもりがないに違いない。

「女のくせに男のような口のきき方をする」「言葉が荒い」とさんざん叱られた私達だが、どうやら娘達に同じ教育をすることはなさそうだ。
数十年経たないうちに、私達にとっては普通に推奨されていた言葉遣いが「20世紀の日本女性の間で大流行した言葉遣い」とされるかもしれない――とまで思う。

最後に、厳しい教育を受けた義母が拍子抜けしたことを紹介したい。
何十年かぶりで高校の同窓会に参加したところ、厳しかった先生も出席していたそうだ。
ところが、先生は地元の方言を丸出しで楽しそうに話し、生徒達は標準語だったそうだ。
やはり慣れ親しんだ言葉が良いようで。


5月2日

ワークシェアリングがお得です

最悪の列車脱線事故から1週間。
世間では、「“運転士が悪い”という主張がすべて」という人も多いが、各報道機関は労務管理・安全対策の面で会社を追求している。

労働環境や顧客の安全は優先順位が低い―という企業は案外多い。
食肉の偽装事件やゴミ餃子、観光バスの事故や大量解雇の後の過労死など、頻繁に事件が起こっている。
※ 函館本線で起きていたカーブの脱線事故は、同じ地理条件を持つ地点での同類の事故であったのに、運転士を懲戒免職にする以外の解決策を採らなかったものらしい。
しかし、1度事件が起きると、その規模や性質によっては企業が存続できなくなる大損害を与える。
「直接利益に結びつかなくても必要なコスト」という意味では、企業にとって保険のようなものだと思う。※ 参考記事

マスコミ各社が報じるような、機械的な安全弁は是非活用してもらいたい。
その他にはワークシェアリングを提案したい。
福知山線では運行の遅れというプレッシャー、函館本線では※飲酒や居眠りといった運転士側の問題があった。
こうした問題を解決する一助になるはずだ。
給料半分で良いから心身に無理をさせない仕事をしたい、失業だけは免れたい、と希望する労働者が広範に存在するからだ。
過労状態に置かれている人、まだ元気だが子育ては完全に終了した人、失業者など。

※我が町の100円循環バスがまだ無料で試し運転をしていた頃、無料という気安さも手伝って、信号待ちの時などに客と世間話をする運転士がいた。
彼が就職した頃は、乗務する前に飲酒しなければ差し支えないので晩酌が楽しめた。現在では半日前(私の記憶が曖昧なので、もしかしたらもっと長かったかも?)から飲酒できなくなるので、休日前だけの楽しみになってしまった――と大変に嘆いていた。
独身中年の彼には晩酌が最大の楽しみだったのである。

ワークシェアリングが効果的な職種は、2つほど思いつく。
1つは今話題になっている公共交通機関の乗務員。
彼らが過労状態にあったなら、乗客の安全を脅かす。
もう1つは教員。
特に小学校では、担任一人で全教科を教えることで※弊害が出るのだ。
あるいは毎日のように学級通信を出してくれる「熱心な」担任もいる。
「そんな暇があったら、教材研究をやれ。せめてリフレッシュしてこい」とかみつくのは同業者。
「もっと、もっと」と(この人は担任の睡眠時間を削っていることに気が付かないのだろうか?)要求する保護者もかなりいる。

※私自身の小学校時代の恩師達は、一般教科には熱心だが、まともに体育の教材研究をやっていなかったのではないかと疑っている。
たとえば、50m走の授業では、ただ子ども達を並ばせ、ストップウォッチでタイムを計測するだけだったのだ。
こんな授業では、子ども達は自分が速いのか遅いのかしか分からない。「より早く走れるようにするにはどうしたらいいのか」という学習に発展しない。
私なら、子ども達にストップウォッチを持たせ、10mおきのタイムを計測させる。
グラフ化することによって、自分自身の50m走の課題を見つけることができるだろう。
※残念ながら、まだムラムラするお年頃の男性教諭と発育の良い小学6年生女子が2人きりになると、あらぬ事件が起きる。
行事があっても土曜日は完全に休みの育児中女性教員と、とにかく月曜日は完全に休みの高齢教員がサブについていれば、事件まで発展する確率は低くなるのではないか。

“無理なく働きたい”労働者の賃金の総額を決めてしまえば、経営をあまり圧迫せずに「労働環境・安全」という保険をかけることができる。
お得になる職種は他にもあると思う。
ワークシェアリングを採用する企業が増えてくれることを願う。


JR(特に西日本)の事故や不手際に関する報道が、深刻なものからさもないものまで続々と出てきています。
福知山線事故当初は「末端(事故車輌の乗務員)を罰して終了」の方向に誘導されるかと心配したのですが、事故調査委員会のお陰で会社の体質が問われてます。
そこまではいいのですが、なにか事件が起きるたびに報道姿勢には疑問が沸々と…。
被疑者は誰か、誰を起訴するのか。警察はそれが仕事ですから、犯人を捜すという視点です。
それに対して報道機関はより真実が知らされるようにという視点を持つはずです。
誰が、何が真犯人なのかは、視聴者一人一人が考えればいい。
世論誘導するにしても「今後このような事故が起こる確率を少しでも下げるためにはどうしたらいいのか」の方向になるはずですよね。
でも、毎回毎回毎回毎回毎回マスメディアも犯人を決めようとするのに懸命になっていて、事件を教訓にしようという姿勢がほとんど感じられないんですけど。
報道機関が警察の仕事しなくてもいいから…、と思いながら見てます。
今回、まともなの国土交通省だけかなあ?
(5月7日)


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