[ 新しい教育? 目先の利益 ]

9月22日

働く母親を巻き込む方法

何かの役員を決める時、しばしばもめる。
「時間のある専業主婦にやってほしい」
「専業主婦だって暇じゃないんです、家事だって育児だってあるし」
「それは私にもあります。誰でもやってることでしょ」

「働くお母さんがもっと動いてくれればうまくいくのに、私達にばっかり押しつけてずるい。
働かないのにも理由があるのに」
と悪口を言い合い、いがみ合う前に、工夫をしてみよう。
伝統的PTA活動のフレームは時間単位(人によっては分単位)で動く人を想定してないのである。
より忙しい方に合わせる工夫が必要だ。

まずは会合。

始まりの時間よりも、終わりの時間を守るのが大切だ。
そもそも終わりの時間を設定すらしていない会合も多く存在する。
遅れてくる人を待っていつまでも時間が延長されるのは、最悪であると心得よう。
先に始めるのは決して失礼なことではない。
やっとの思いで時間を割いた人の時間を更に奪うのが失礼なのである。
たいていは、欠席がちになる人が非難されるが、その原因を作った遅刻常習者やダラダラ会合になだれ込ませる会の体質が批判されることはない。
「働いてるから何でも許されると思って……。これだからあの人は嫌。
出てくるのは最初のうちだけなんだもん」

文書化しよう。
レジュメを作ろう。(予め配布すれば尚良い。)
司会者の声が届かず(ボリュームの問題ではない)、議題が分からない。
レジュメがないから、1つの議題のたびに雑談が入る、脱線する。
よく分からない後ろの方の席では、まったく関係のない雑談が始まる。
決定事項も書かないから、何が審議されたのか分からない。
当然の事ながら? 議事録が公開されることはない。
議事録には単語が羅列されている。
書記にも聞こえていないか、どこまでが決定事項でどこまでが雑談なのか判断が付かないからだ。
そこで、後日争いが起こる。
「そんなこと聞いてません」
「あなたも会合に出席したじゃないですか。ちゃんと聞いてたんですか」

ついで行事。

「やってみれば楽しいんだから」という理由で出席を強要しない。
年休を申請するにも、病気以外は突然というわけにはいかないのである。
さすがに現役のお母さんには少なくなった。
「女性の仕事は誰でも代わりができるものなので、いつでも休めるはずなのに、
行事に出てこないのは、その人が面倒くさいと思っているからだ」
それでも、超保守的な地域に住み「長」がつく役職のお母さんにはいまだにいるのだ。

行事の後の一席に出られない人を非難しない。
「実は予約を取ってあるんだ」
ったら、最初から通知しておくべきである。

予告と文書化を原則にしてくれれば、働く母親もなるべく協力したいと思っている。
自称専業主婦の中には、たまたま既婚女性であるというだけのニートが存在するが、少数派である。
真面目な専業主婦が四苦八苦しているのを見れば、自分にも分担できることがないかと思う。
ほんの少しの改革で、専業主婦も働く母親も協力しやすくなるだろう。

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9月15日

目先の利益

数年に1度くらい、ひどくタチの悪い風邪に罹ることがある。
こういう時は仕方なく医者にかかり、処方してもらった薬を服用する。
症状が軽いというだけで年に1〜2回は風邪をひくが、
その時は多めに休憩を入れるか、もっと風邪らしくなれば葛根湯のお世話になる。
ごく一般的な風邪との付き合い方だろう。

医院や病院で処方してくれる薬の多くは西洋医学の考え方に基づいた医薬品である。
要素還元主義であるから、有効成分を探し、それを精製して作られている。
医院や病院で処方する医薬品・市販の医薬品・医薬部外品の順で有効成分の含有量が少なくなることは、ご存知の方が多いだろう。
これに対して、漢方薬は葛根などの総体が有効か有効でないかを判断する。
葛根に含まれるどの成分が有効なのかはあまり問われない。
精製して純粋に近ければ近いほど良いというものではなく、純度が高くなれば副作用はそれなりに強く出るが、薬効の方はほとんど変わらないという場合も多い。
そこで、私達はその時々の体に合わせて薬と付き合っているのだ。

純度が低い方が喜ばれるものといえば、塩だろうか。
NaClが99.9%を占める工業用の塩は最近食卓で見なくなった。
もっと高価な岩塩や海塩がよろこんで使われている。

このように、不純物を多く含む葛根湯が「ちょっと風邪気味」の時に頼りになったり、
岩塩や海塩が「美味しい」という評価を得たりするのだ。

さて、我が国の経済は回復基調にあるらしい。(私自身はまだ実感がない。)
大企業を中心にリストラ(解雇だけに頼ったまがい物のリストラも含める)が進み、企業収益も好調らしい。
本当にそうなのだろうか?
必要最小限以下の人数で業務をこなすために、不払い残業が横行している。
人件費が大いに削減できるため、目先の収益はあがるだろう。
だが、必要人数を30%削れば30%収益が上がるというものではない。
労働者の疲労は収益を下げる方向に作用する。
それに対して、クレームの増加や信用の低下はきっちり30%かそれ以上の影響をおよぼすはずだ。
純度を上げすぎた医薬品のように。


今回は 睡眠不足や疲労が研修医(レジデント)の注意力などに与える影響は酒酔いに近い という記事に触発されて書きました。

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9月1日

新しい教育?

web の文章そのものをDLしてプリントアウトしたものを、自分のレポートとして提出する大学生が実在するらしい。
勿論「最近の大学生はなってない」と短絡するつもりはない。
だが、数年以上前から兆候が見えていたことである。
高校までの教育では、さまざまな情報を素材として使って自分の主張を組み立てる…などという学習はないから、彼らはまったく教わっていないことを要求されているのだ。

かつては知識そのものに価値があった。
「知っているか知っていないかだけだったら、調べればいいじゃないか。大事なのはアイディアだ」という声はあったが、そう大きくはなかった。
やがて、総合的学習が声高に叫ばれるようになり、教科内容が削減され続けた。
知識はつながり、重層構造を為していくものだ、
教科内容が削減されると、理解するのではなく丸暗記しなければならないものが増えていった。
今度は学力の低下が不安を招いた。

しかし、詰め込みか余裕かの議論を白熱させているうちに、別の議論が必要になってしまった。
技術と違い、ネットで検索して容易に得た情報は自分のものではない。
苦労して身につけるのではなく、瞬時に調べることができるのだから、知識一つ一つには昔ほどの箔が付かない。
情報の所在を明らかにした上で、自分の考えに沿ってそれらの情報を再構成しなければほとんど意味がない。
従来型のテストでは測りにくい学力である。

こうしたニーズに合わせて、教員達が創意工夫していくことが求められている。
少なくともNHK教育の雰囲気や文科省からの発表ではそうした要求が感じられる。
教員達がかつて生徒として教わってきたのは主に前世紀までの知識であり、基本的にはそれを覚えるに長けた人たちが教職に就いている。
今や生徒達はいつでもインターネットを介して最新の知識に触れることができる。
それをどう制御するかという指導を「各自でやって下さい」では間に合わない。

しかし、そうした「先例にないこと」に取り組みたがらない組織の一つが学校でもある。
学習指導要領にない「面白い科学実験」をやる理科教師はいまだに「名物先生」だし、
ある学校が工夫して障害児を受け入れれば取材されるのが現状だ。
ましていまだに、少年犯罪の捜査が進み、加害少年の周辺に「インターネット」が出れば、ホッと一安心して「インターネットが悪い」と叩くマスメディアの姿勢を見ると、
学校たるもの現代の浮薄なる風潮に流されてはならんと考えるのも当然か。

だが、なんでもいいからとにかく学校を改革すればいい、というものではない。
以前、民間企業人を校長として起用した学校の、報道番組を見て驚いた。
そこでは、現代で求められる学力を伸ばす方に力点は置かれていなかった。
おそらくは「思い切った改革」の手法の一つであった「教師の権威を引きずり下ろす」が自己目的化して、
そのためには教師生徒間や教員同士の信頼関係を破壊することも厭わない状況が伝わってきた。
それでなくても、学校は手段が自己目的化しやすい場なのである。
最終目的は何か、しつこく確認していないと忘れ去られる。
児童・生徒の体力向上のために走らせていたのが、いつの間にか修練・鍛錬にすり替わっているのが学校なのだ。
何を変えるのか、改革後はどうなっていくのか、常にそこに照らし合わせて慎重に改革を進めていかなければならない。
改革のために何かを破壊することはあるだろうが、改革後のビジョンがスタッフ(教員と職員)間で共有されていない状態での破壊は無意味である。
民間企業人を導入して期待したのは、現代企業を発展させる人材に育てるという視点が欲しかったからではないか。
もっといえば、「容易に得た膨大な情報を使いこなす人材を育てる」という発想そのものが過去の学校にはなかったから、それを導入したかったのではないか。

伝統的な先例踏襲主義でもダメ、民間企業人が入ってくると見当違いな方向へ迷走、
日本の子ども達の学力が低下し続けても驚いてはいけない。

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