F5バナー

[ 嫌だと言うことをやってはいけません 迷惑ノスタルジー 障害者も外へ出てみよう 人はみなマイペース ]

2月14日

人はみなマイペース

先日縁あって血液型のバトンが回ってきた。
今は穏やかで軽い話の種になった血液型占いだが、ブームの時はとにかく凄かった。
好きな人がかなり多かったので、メンバーが重ならないように注意しながら、毎回違う血液型を言ってみた。
勿論、毎回納得され、「嘘でしょう」と言われたことはない。
人間誰しもが多少は持っている特性を4分割(星占いなら12分割)して×型の特性だと主張すれば、誰でも当たってしまうというだけの、占いの持つ他愛のない特徴というだけのことだ。
しかしながら大ブームの時期、私は血液型占いが嫌いだったのだ。

当時にあっても、少女であっても、占いによって正反対の結果が出ることは知っていたし、それを気に留めることはなかった。
どの占いも同じだったが、血液型なら話題にするのはABOしかない。
わずか4パターンを覚えてしまえば、あまり仲の良くない子とでも15分はおしゃべりができた。
警察の捜査じゃないのだから、それだけで十分である。

面白半分の話題にしているうちに、あることに気が付いた。
血液型と性格は全く関係ないが、血液型と血液型占いに対する態度にははっきりと差が出る。
自分の血液型を最初に、それも申し訳なさそうに言うのは決まってB型の人である。

人間の特性を単純に4分割して割り振ったものではないらしい。
星占いやこれを書いている時にたまたま発見した 三国志占い とは違い、血液型占いには価値観が封入されている。
古川竹二氏の学説では血液型による人間そのものの優劣は論じていない。
だが、その後占いとして発展していく間にA・O・B・ABという順位がついてしまったのではないか。(3位と4位はしばしば逆転する。)

「B型の特性」のうち、もっとも卑屈に語られるのは「マイペース」だった。
(過去形になりつつあるので、嫌いではなくニュートラルな気持ちになれた。)
考えてもみよう。
マイペースを守れない人間が、一気飲みをやって急性アル中になるのだ。
マイペースを守ってはいけない場面など、私には運動会の行進くらいしか思いつかない。
その行進も、中背の人にはおそらく分からない苦労が、小柄と大柄にはある。
私が小学生中学生の頃は小さな人を先頭に、身長順に並んで入場行進を行った。
開会式では本部前にずらりと小さな可愛い子が並ぶのである。
小柄でも走らせれば速いという人はいるが、運動場程度の距離を歩く場合は、脚長と移動スピードは正の相関関係となる。
要するに、小学生時代は「後ろの方の人はだらしない歩き方でよくないと思いまあす」と同級生の指摘を受け続けたのである。
「思いまあす」と言われたところで、半歩出しては止まる歩き方でキビキビ歩くことはできない。
高校時代は私が先頭だった。つまり入場行進を終わってくると、本部席から見えるのは脚の長い子ばかりということになる。
後ろは堪ったものではない、入場行進が入場ダッシュである。

ただし、運動会の入場行進とマイペースを何か良くないことのように言い立てる時とでは、決定的な違いがある。
後ろの小柄な生徒が息を切らせていると、教員は「もう少しゆっくり」と声を掛ける。
逆の場合は前の小柄な子に「走れ」とは言わない。
しかるに一般世間では仕事の遅い人が糾弾されるのである。
残酷な話ではないか。

どうしてもペースを合わせねばならない時は運動会の入場行進の如く遅いほうに配慮すべきである。
だが、その必要がない時は各自マイペースが結局合理的である。

△ page top

2月12日

障害者も外へ出てみよう

現在東横インは予約いっぱいだそうだ。
障害者の苦悩は健常者には全く別世界のことなのだと嘆く向きもあるかも知れないが、よく考えてみればチャンスではないか。
どういうきっかけであれ、世間的な関心は高まっている。
うまく利用すれば、より障害者が外に出やすい状況へ持っていけるかも知れない。

スティーブン・ホーキング氏が2001年に来日したこともあるし、彼のファンも多い。
彼の姿を見た人は、彼の障害よりも彼のユーモアに魅せられたことだろう。
障害者の代表のように言うのは少々心苦しいのだが、それでも彼のファンには
「たいていの障害者はその障害故に旅行に出るのは困難だというのは間違っている」
という主張に賛成してもらえると思う。

旅行は健常者にも障害者にも、普段の生活を離れて心身をリラックスさせたり、あるいは新しい刺激を得たりするものだ。
どちらにとっても楽しみであるに違いない。
それなのに、旅行する障害者がその人口割合(5%程だそうだ)よりも遙かに少ないのはなぜだろう。

1つはホテルにたどり着くまでの交通の問題だ。
たいていの障害者は交通手段として自家用車を選ぶだろう。
多くの障害者がそれ以外の交通手段に慣れていないからだ。
しかし、もっと遠くへ行きたいなら、鉄道や飛行機といった交通手段を選択しなければならない。

より身近な鉄道について。
問題は地方、それも赤字ローカル線である。
山手線ですら、先月の大雪の日には復旧に大変時間がかかった。
何事もおきないという前提で、必要最小限の人数の職員しかいないのだから、人海戦術が必要な時にかつてのような対応が取れないのである。
まして赤字ローカル線では、設備があっても対応できる人員がいない、そもそも設備がない、無人駅である…といった駅が多く存在する。
設備のない無人駅ではどうしようもないので、他の交通手段で別の大きな駅に向かうしかないだろう。
その際、即時に対応してもらえず、結局目的の列車に乗れないということが起こりうる。
そのようなことがないよう、できるだけ障害者も公共交通機関を利用していた方がいいのだが、困難なケースも多い。
鉄道会社などに自治体から十分な人員をおいて貰うよう要請することも必要である。(実際には障害者団体が自治体に申し入れることになる。)
また、それまでの間、たとえば旅行代理店に旅行計画を依頼したなら、代理店側で必要な機関に障害者の旅行予定を知らせておくサービスも必要になるかも知れない。

聴覚障害者や軽度・中度の知的障害者には交通手段に関して特別な設備は必要ないだろう。
彼らに関しては、ホテルが電話以外のモーニングコールを用意すればいいのではないか。

健常者よりもやや大変な旅行となるので、子どものうちから旅行慣れしておいた方がよろしい。
そこで、障害児の公共交通機関やホテルの利用を考える。

交通機関の職員・ホテルのスタッフの対応は及第として良さそうだ。

鉄道やバスに乗り合わせた他の乗客やホテルに泊まりあわせた宿泊客のうち、若い世代に関してはまず大丈夫だろう。
昔と違って、障害児との交流をそれなりに(年に1度〜数度)経験している人がいる。
芦屋雁之助氏の熱演やセサミストリートのおかげで、障害者の存在を知っている。
(中には理解力に乏しい人がいるから保証はできないが。)

問題は年配の人である。
障害者など見たことも聞いたこともなく、「TVに出てるのは見たことあるけど、なんだか気持ち悪くて怖い」と思っている人 ―――
親戚や友人の家に障害者がいて家族の辛苦を目にしているので、いつの間にかボランティアをやっている人 ―――
のどちらかなのである。(中間が若い人に比べて少ない。)
後者に当たればラッキー。
前者、しかも正義感が大変強くて、現代人はだらしないとか大和魂はどこへいったとか日々嘆いている人と、身体は健康な知的障害児が当たってしまったら最悪である。
同行している親が彼(女)にひどく叱責されることになる。
親の躾が悪い、にはじまって、自分が若い頃はこんなにだらしない子どもはいなかった、そもそも今どきの若い親がだらしない、現代の風潮が悪い、と彼(女)の日々のうっぷんまでぶつけられる羽目になる。

困難にあっても頑張り続けられる持久性の根性と勇気がある親なら、いずれは若い世代や年配のボランティアなどの味方をつけることもできるだろう。
だが、たいていの障害児はそれ以降、家族と学校の先生や仲間しか知らずに大きくなる。

しかし、この問題は障害者用の設備や対応できる人員の問題よりも見通しが明るい。
障害児も家に閉じこめておくより外へ引っ張り出す方が教育効果が高いと、一般の人でも認識している。

さらに一般の認識を深めるために、NHK教育には提案したい。
セサミストリートを再開するか、健常児障害児の両者が共存共生している番組を制作するかして欲しい。

最後に見通しの暗い問題を指摘しておく。
健康保険の議論では、患者の自己負担割合を多くする案が優勢である。
しかしながら、身体障害者の医療費は半端ではない。
また、家族が介護に取られてしまうので、誰か一人(多くは母親)は生産年齢にありながら就労できない状況にある。
こうした状況は問題にされることはなく「5%の人が医療費の80%を使っているから、この人たちにもっと負担させるべきだ」と識者が言えば、一般の人は全員頷いてしまう。
患者の自己負担割合を上げれば、医療の必要な人が先延ばしにして、いよいよ悪化してから病院に担ぎ込まれることになるだろう。
早期発見・早期治療が結局安上がりだから、患者の自己負担割合を上げてはならない、とする意見は一部でしかない。

早晩、障害者は自己負担をもっと求められることになるだろう。
そうなると、東横インが条例を守った改築を終わる頃には、宿泊に行ける障害者は今よりもっと少なくなっているだろう。
やはりチャンスは今だ、今しかない。

△ page top

2月10日

迷惑ノスタルジー

誰にでも郷愁はある。それを責めることはできない。
特に高齢者は価値観のほとんどがノスタルジーでできているのかも知れない。
だが、その時代に生きていた人はほとんどいないだろうに、世代から世代へ引き継がれているノスタルジーがある。
それは19世紀から20世紀前半の社会を決めていた枠組みである。

「主要国首脳会議」と銘打たれている会議がある。
大変不思議なことに、韓国が呼ばれず、ロシアが参加するのだ。
ロシアは核保有国であるから、という理由なら、日本が参加してインド・パキスタンなどが不参加なのも奇妙だ。
「主要」の基準はなんだろう?
100年前の「列国」という理由が、一番すっきりとして見える。
しかし、会議の内容は100年前と同じではあり得ない。
なぜ「現代に即した影響力の強い国」を招こうという話になっていかないのだろう?

100年前の列国にとって、当時は世界大戦があっても幸せな時代だったのかも知れない。
この時代に生まれた制度や風習は「伝統」と言いくるめて存続させようとする意図を感じる。

日本では「皇室典範」もこのひとつだろう。
皇位継承において、女性・女系を完全に排除したのは、最近150年くらいのことである。
縄文時代や弥生時代を無視した戦前の歴史教育ですら、女性の天皇が存在したことを隠蔽したりはしなかった。
従って、日本人の全員が「もともと皇位継承においては男性・男系は優先であり、限定ではなかった」ということを知っている。
にも関わらず、150年の伝統を守るために、それに先だつ1500年を無視して当然だという意見が優勢なのである。

もっとも皇室典範は江戸時代以前に戻す話ではなく、21世紀という現代に即した制度に変えようと言うのだから、保守派の反発は仕方ないかも知れない。

夫婦の姓名の問題となると、まさに150年の伝統のために「名字」というものが生まれた歴史的背景を否定したままにするのが当然だという主張が現状の多数意見だ。
「名字」とは、先祖が開発した「名田」の名であり、一族の誇りが込められたものなのである。
しかし、150年ほど前、先祖の誇りを持たない庶民達も名字を持つことになった。
庶民達は自らの一族のいわれなどわからないので、適当に付けた。(致し方ないだろう。)
適当に付けられた名字にプライドはない。

当時は、本来の名字を持っていた士族の方を無理矢理平民に合わせたわけだが、
もしも「華族・士族及び苗字帯刀を許されていた家は旧来通りとし、新しく名字を作った平民階級は結婚後は夫の姓で統一する」ということにしていたら、今頃とても面白いことになっていたろうに。
残念!

現代「個人の業績の継続」というまったく別の理由から、名字本来の在り方に立ち返った方が都合が良くなってきた。
本来に還るだけなのだが、簡単には還れそうにない。

現代に即したものを作ろうとする時、本来のものを大事にしようとする時、この強烈なノスタルジーが障害となっている。
そろそろ総決算して、残すべきは残し、必要ないものは片付けるべきではないのか。
日本も、他の100年前の列国も。

△ page top

2月7日

嫌だと言うことをやってはいけません

デンマークで出版された雑誌にムハンマドをテロリストになぞらえた風刺画が掲載され、イスラム教徒の激しい反発、抗議行動を招いた。
雑誌の編集長は「不快感を招いたことは遺憾だが、風刺画は言論の自由であり、謝罪する気はない」と語った。

はて。
侮辱を言論の自由だと言い換えることができるのか?

相手が「これだけは絶対やらないでほしい」とはっきり表明していることを敢えてやるというのは私達にも見覚えはある。
終戦記念日に閣僚が靖国神社を参拝しようものなら、近隣諸国から猛反発が出る。
これに対して、一般の日本国民は
「一般市民を攻撃の標的にするのはやりすぎだろう」と思うものの、抗議行動そのものには
「日本の閣僚も精神の自由があるとはいっても、相手国がこれだけ嫌がってることが分かっているのに、敢えて公人である時にまでやらなくてもいいだろう」くらいに考えているのではないか。
経済効果からいえばマイナスにしかならないのだから、靖国参拝が政治的駆け引きの一つであると認識しているのである。

しかるに、TVに出てきたデンマーク市民の反応は異様であった。
今回の事件は、日本人感覚では靖国どころではない大問題ではないか。
信仰を侮辱されて黙っていろと、自分が何を言っているのか分かっているのか?

今後の進展に不安をもつ。
異文化を侮辱することが肯定されるような事態にならなければいいのだが。
マスメディアであれ、ネットであれ、それが公の場に出てもいいものは、他者及び自己を尊重するものでなければならない。

△ page top


過去ログ過去「言いたい放題」へ

homelinkmail

inserted by FC2 system