[ 「弱肉強食・優勝劣敗」も、個人を性別枠に閉じこめることも   「区別」と「差別」   「セサミストリート」と「おかあさんといっしょ」   2つあること   感情論の暴走 ]


3月28日

「見た目」重視の女服

失敗しました。新しく購入したジーンズが苦しいのです。やはり、「女性用」を選択したのが間違っていました。
だって、動くつもりでいたのです。女服で動こうという方が間違っているのです。

このテーマは何度も書こうと思いましたが、小説でもさんざん文句を言ったので、遠慮していました。
でも、毎日のことですから、やはり納得できません。

確かに女服の機動性も少しは改善されました。
今や、制服を義務付けられてさえいなければ、寒い日や暑い日、腰が重い日、動きが多いと分かっている日などは、パンツスーツで差し支えありません。
通勤中はウォーキングシューズを履いていて、職場に到着してからこっそりパンプスに履きかえることは、公共交通機関内での化粧に比べれば、ほとんど非難の対象になっていないと言っていいでしょう。
若い女性向けに限り、股下の長いパンツも出現しています。(以前は股下の長さは一定でした。)
何と言っても、アームホールの余裕が嬉しい。以前は女が腕を上げることなど想定されていなかったのでしょう、昔の服の腕がキツいこと! いくら「流行は繰り返すから」と言っても、これではとても保管して後で着ようなんて気は起きません。
小さな子どものいる母親で職業のない人にとっては必須アイテムであるジーンズ、これもずいぶん柔らかい素材になって、家事が楽になりました。

ところが、どういうわけか、女服というものは必ず着用している女に不便を強いる方向へ進化してしまうのです。
旅館や料亭で働く女性従業員達の帯は半幅であったり、もっと細かったりします。あれが私達庶民女の本来の着方です。
それが、江戸時代を通じて、町屋の女房達が遊女達と張り合ったおかげであんなに太く華美な帯ができあがったと聞いています。
遊女の帯など、見せるためのもので、すぐに脱いでしまうでしょうに。それを着けたまま働く人が、遊女の帯を意識するなんて、正気の沙汰とは思えません。
ヨーロッパでも、座っているだけの貴婦人のバスルスタイルのスカートを、女中までもが真似をして物笑いの種になっています。
近代の女学生の制服も例外ではありません。
明治初期、私塾の女学生達は男袴を着用しました。当時考え得るもっとも機動性の高い服装です。
ところが、この装いはすぐに禁止。女学生達は一般の和服を着用することになります。
その後、明治30年代になってようやく女袴が普及します。男袴に比べれば落ちますが、一般の和服に比べれば断然活動的です。
それにしても、体育の授業の時はさぞかしや困ったでしょう。(女子高等師範では明治後半になって体育用にセーラー服を採用しました。残念ながら一般に普及しなかったので、体育の授業はたすき掛けか括り袴で行われました。)
女学生の洋装制服が登場するのは大正後年以降の話です。男子はとうに詰め襟。
子ども達が洋服を着用するようになって「縄跳び」という遊びが登場したわけですから、洋服の有用性はすでに認識されていました。
そして、現代。せっかく素材が柔らかくなったのに、大腿四頭筋のある部分が細く絞り込まれたジーンズです。脚を長く見せる効果があるとのことですが、横断中に歩行者用信号が点滅した時のことは考慮されていません。

男服が単純に機動性を高める方向に進化してきたのに、女服が機動性と装飾性の間を行きつ戻りつしていることがご理解いただけると思います。
私はれっきとした女ですが、パンツに限って言うと、どんな女服よりも主人のお下がりがもっともフィットして動きやすいのです。

さて、最後に女服に注文を出しておきましょう。
まず、機動性を損なうほどの装飾を廃して欲しい。飾る必要のある服までとは申しません。ビジネス用のスーツと母親用の普段着をお願いします。
次に、身長156cm以外の女の考慮をお願いします。
私達長身女の肩幅は小柄な女性に比べて相当広いのですが、女の肩幅は身長に拘わらず37cmと決められてしまっています。(私は45cmあります。とりあえず、肩パッドのある服を選び、パッドを外して着用しています。)それに対して腰幅の方はあまり変化がありません。大きかろうが小さかろうが、要は子ども一人通れればよいのです。(勿論、若干は広くなりますから、見た目は細腰でも長身女は一般的に安産です。ラッキー♪)スーツを選ぶ時に大変困っています。
小さい人達も困っています。小柄であっても成人女性ですから、子供服で代用するわけにはいきません。ヒップサイズは、子ども時代は小さく、思春期に最大(成人した時より1割り増しくらいになります。)になり、18〜19歳ほどで成人サイズに落ち着きます。
このように体型が違いますから、単純に拡大(または縮小)するとか、丈だけを変えるといった現代の型紙を是非見直してください。
人目(特に男性の目)に、より女性的な体型に見せることも重要ですが、なにせ毎日のことですから、気持ちよく動けることがより重要です。
夫婦ですら「男と女」でいる時間よりも「共同生活者」である時間の方が長いのです。


3月23日

「弱肉強食・優勝劣敗」も、個人を性別枠に閉じこめることも

衝撃的な「公民授業実践報告」を見ました。
ジェンダーフリーに抵抗している教師が、中学生を「やはり男らしさ・女らしさは大切で、それがなければ恋愛などは成立せず、尚かつ性別の範囲から出た自分らしさはあり得ない」という結論に誘導するための授業実践です。

正直、私はこちらでいうところの「女性団体」の「単純な」ジェンダーフリーの主張は知りません。
ですが、こちらで批判している通りだとすると、彼の知る「女性団体」は染色体・受精卵レベルの性差以外はすべてジェンダーであり、ジェンダーである限り壊滅させねばならぬという主張をする団体ばかりの様子です。

ただ、この種類の話はタイトルが伝えるのとは全く違った内容が語られていることがあります。
1月14日にも「性『器』教育の是非を巡る論?争を読んでみました」というタイトルでここに書いたのですが、「性教育」と銘打っておきながら、賛成する団体も反対者の中学校教諭も共に、性器の名称と自分の快楽と男女の役割分担をごっちゃにしつつ熱く語っていました。
そこには、染色体・受精卵レベルの性差と脳の性差と第一次性徴・第二次性徴といった生物学的性差、そして文化・社会的性差(ジェンダー)を分けて教えようという発想はありませんでした。
また、性を「生殖」と「(本人一人の)快楽」からのみ捉え、相手に対する思いやりを喚起することもなければ、まして「2人で作り上げる」という発想もありませんでした。
そこで、私は「性器教育」と表現した方が論争の本質を理解しやすいと考えました。

さて、私自身の宿題「弱肉強食」の論破と合わせて、言いたい放題書いていきます。
というのも、見た目が異なるものを差別し、しかもその差別を正当化するための「手口」は大変似通っているからです。

まずは「進化」からいきましょう。
生活する環境において、より有利に生きる方向の個体の特徴が次の世代に残りやすくなります。
ウサギの場合、肉食獣から逃れてより長い時間餌を食べていられる個体の方が、長生きして子ウサギをたくさん残す確率が高いからです。
足が速いという特徴を支持する自己複製子が次の世代により多く受け継がれるのです。
長い目で見れば、ウサギはだんだん足が速くなりました。

次に「社会進化論」です。
「生物が単純なものからより複雑なものに進化するように、社会も未開から文明へ進化する」としたのが、スペンサーでした。
彼は「進化」「適者生存」という言葉を作り出し、イギリス人はスペンサーの進化論を受け入れました。
なぜなら、スペンサーはイギリス人が聞きたいことを言ってやったのです。
文明社会に生きるイギリス人が未開社会に生きるインド人を搾取するのは、自然の摂理だということになったのですから。
何せ、文明は未開より進化している「適者」なのです。
未開は適者ではないのだから、滅んだって文明が悪いのではありません。

スペンサーによって、進化論の中に巧みに価値観が組み入れられました。
食物連鎖の上位にいる方(たとえばライオンなどの肉食獣)が下位にいる動植物(たとえば草)よりも偉いように(私はこの部分を皮肉として書いています)、戦争に勝つものが偉いのです。
戦争に勝つ機会が多い列国の国民には大変に心地よい理論になりました。

社会進化論はさらに強者に心地よい理論へと「進化」を遂げます。
「科学」が心地よい結果を出すようになるのです。
たとえば、20世紀初頭のアメリカでは、有色人種は大変に知能が低く、また白人であってもアングロサクソン系に及ぶ民族は無いという調査結果が出ています。
知能検査のやり方ですか?
やっと辿り着いた移民を港の倉庫に収容し、そこに調査官が赴くのです。
胸ぐらを掴んで立たせ、「知っている単語を言え」と怒鳴りつけます。
言えた単語の数で知能を測るのです。(私ならパニックを起こして「What?」としか言えそうにありませんから「精神薄弱」に判定されます。)
そこで、先のような調査結果が出て、新聞発表され、「精神薄弱の割合があまりにも高い有色人種の移民を無制限に受け入れると、アメリカ社会が崩壊する」という世論に結びついていきました。

科学に価値観を組み込み、巧みに誘導する……
これが、差別を正当化する手口です。

性差別を存続させるためには、科学と迷信と優越心をくすぐるようなものを提供してあげればいいのです。
男と互してやっていける女はださいし、女を認める男はカッコ悪いのです。
これは言論ではなく、映像や音楽で見せる方が効果的です。

しかし、ジェンダーフリーに関して言いますと、「抵抗勢力」の激しい抵抗ももう10年程度ではないかと思います。

スペンサーの「社会進化論」は帝国主義推進のための、いわば社会的要請に応えたものでした。

この知的財産が重視されるようになった国際社会で「女は家庭」だの「男は常に女より上位で在らねばならない」だのと悠長なことを言ってられますか?
右肩上がりの時代ならば、人口の半分(男性)のさらに半分(ステロタイプのオトコらしい男性)だけの特性や能力を発揮させるだけで事足りたのです。
しかし、この国に高度経済成長はもう2度とやってきません。
性別よりも、一人一人の特性を有効活用しないと、国際競争に勝ち残れないのです。
ジェンダーフリーも、ヒューマニズムではなく、国際競争力を上げていこうとする社会的要請から来ています。
(女も能力に応じて働き蜂になってくれとのことです。)
この要請の前には、抵抗勢力のノスタルジーなどものの数ではありません。


3月15日

「区別」と「差別」

突然ですが、あなたの職場で部対抗の1500m競走が行われることになりました。
出場選手は5人ずつです。
そこで、あなたが所属する部でも競技会をやって、選手を決めることにしました。
20代・30代の男性は全員参加です。これは強制的なもので、中距離走は苦手だと分かりきっている人でも例外ではありません。
40代以上の男性と、年齢に拘わらず女性は自由参加ということになりました。
これは、区別ですか? それとも、差別ですか?

あなたは1500mを5分40秒台で走るごくありきたりの女性ランナーです。中距離走はまあまあ得意なので、参加を決めました。
競技会への参加は、結局男性10名、女性5名でした。
会社の敷地内のグラウンドは狭く、15人を一列に並べてスタートすることができません。
そこで、男性を前列、女性を後列に並ばせてスタートしました。
これは、区別ですか? それとも、差別ですか?

ところで、18歳男子の1500m走平均タイムはおおよそ6分10秒です。
スタート直後から、あなたは遅いほうの男性をどんどん抜いていきます。
1人抜くたびに、ギャラリーからヤジが飛びます。批判されているのはあなたではなく、抜かれた男性の方です。
抜かれた彼は、顔を真っ赤にして、あなたを抜き返そうと頑張ります。それで、かえってリズムを崩してしまい、彼らは本当に苦しそうです。
これは、区別ですか? それとも、差別ですか?

こうして、あなたは全体の5番目でゴールしました。
あなたに抜かれた6人の男性は「罰として」腕立て100回のしごきにあいました。
さらに女性の2番手にも抜かれた男性は「厳罰」で、10km走らされました。
これは、区別ですか? それとも、差別ですか?

発表された5人の選手は全員男性でした。
あなたの後ろでゴールした男性も、もちろんあなたも、腑に落ちません。
そこで、2人で部長殿に着順通りに決めてくれるように言いに行きました。
すると、はじめから男性だけを選ぶつもりだったが、なにかとうるさいから女性の参加も認めただけだというではありませんか。
これは、区別ですか? それとも、差別ですか?

それ以上の説明もなく、あなたも彼も納得できません。
部長殿はついに怒ってしまい、彼の方が怒鳴られました。
あなたには全くおとがめはないのですが、退室間際に「そんなに参加したければマネージャーにでもなれ」と言われました。
これは、区別ですか? それとも、差別ですか?

私に言わせれば、最初から最後まですべてが差別です。
ここでは、性別の枠に収まらない個性は、無視されるか非難されるかです。
さらに、役割が違うだけの競技者と補助員に優劣を付けて、性別を割り振ろうとしています。
まさか、ここまで極端な例は今どきないかとは思いますが、「男性を抜いた女性」より「女性に抜かれた男性」がより強く弾圧される傾向は変わっていません。
中距離走は苦手でも、他の得意はいろいろあるだろうに、「女性に抜かれた」というだけで、彼がアタマから否定されるのはあまりにも酷い話です。


3月10日

「セサミストリート」と「おかあさんといっしょ」

NHK教育での「セサミストリート」の放映が終わってしまうのだそうです。
「大人向け番組」と「子ども番組」をはっきり色分けして、前者は娯楽、後者は教育にひた走る……欧米型のTV番組の在り方に賛成するわけではありません。むしろ、子ども番組も子供だましで終わらせない日本のやり方の方が好きです。
でも、「ここだけは日本の子ども番組に見習ってもらいたい」というところもあります。

「セサミストリート」の素晴らしさは、ごく普通に障害児や肌色の違う子や英語を話さない人(スペイン語ですね)が出てくるところです。子ども達は、たとえ現実には周囲で見かけなくても、車いすの補助を使えば動き回れる人や手で話す人、自分とは違う肌色や髪質を持った人、英語ではない言葉を話す人々が、同じアメリカという国で生きていることを知るのです。
一方、日本ではそれらの人々が画面に出てくることはありません。もし、あったとしても、特別扱いであって、「ごく普通」からは遠く隔たっています。「ぐるぐるぱっくん」は素晴らしい番組ですが、通常健常児が見ることはありえません。日本民族の健常児として生まれた子どもは、さまざまな人間が同じ日本という国で生きていることを、まったく意識しないまま成長します。

アメリカでは、肌色や居住地区で、はっきり目に見えますから、問題意識が高くなるということも言えます。
分かり易いだけに、「世の中は弱肉強食なんだから、差別は当たり前」だの、「差別ではなく区別しているだけ」といった開き直りをする輩も多いかも知れません。(これらについては改めて論破する予定です。)
そして、せっかく「セサミストリート」を見て育っても、周囲の大人によっては差別意識の再生産に結びついてしまうかも知れません。「知らせる」ということは、少なからずそのような危険をはらんでいます。
しかし、差別意識を再生産しない子どももいます。様々な人間と共生していくことを選ぼうとするのです。
同じものを見て子どもが示す反応が異なるのは、環境が原因なのであって、番組の優劣とは無関係です。

様々な人間存在があることを知らないまま成長したなら、現在の社会のありようでは不自由な状況に置かれている人々もいるなどとは想像すらできないでしょう。
想像の外の人間に対して、人は驚くほど冷酷になれるものです。
簡単な一例を挙げましょう。
地方では、A型ベビーカーがまともに通ることのできない歩道を、ごく普通に見かけます。しかも、その狭い歩道に電柱が立っていて、さらに路駐の車が進路を遮ります。
A型ベビーカーの方がB型よりも乳児に与える振動が少ないことは知っていますが、たいていの若い母親はB型を使います。歩道を歩けない時、赤ん坊を片手に抱き、もう一方の手でベビーカーをひいて、車道を走ることができるからです。
車いすでそこを行くことは不可能です。
しかし、道路についての議論は高速道路のことばかりです。誰も不思議に思わないのでしょうか?
「自分の足で歩けなくても、車いすを使えば自立した行動を取れる人はいくらでもいる。道路をこの状態にしておくということは、障碍者のくせに健常者と同じ風景を見ながら同じ道を歩こうというのは思い上がりだ、とでも言いたいのか?」
などと意地の悪い言い方をしますと、大部分の人はびっくりします。冷酷な行動は必ずしも冷酷な心から生じるわけではありません。

日本には、障碍者も日本国籍を持たない人も、異民族もいます。目を背けて「いないことにする」のは、無意識の差別です。


3月6日

2つあること

今朝のTVニュースで、5ヶ月ぶりの「円安」になったと報じられていました。
この場合はドルに対してエンが下がったということです。
ですが、「円高」と言われた最近も、違和感を覚えていた人がいたのではないでしょうか。
私もその一人です。
違和感の原因は、ユーロに対してのエンも報じられるからです。

ユーロが成立して、ヨーロッパ経済の一体感が強くなったとか、旅行しやすくなったとかといった効果はすぐに分かりました。
ところが、意外な効果が出てきました。
以前はドル一辺倒。ドルに対して上がったか下がったかだけが問題であり、他の通貨を意識することはありませんでした。
ユーロが導入されても、しばらくはドルとユーロを見比べていたように記憶しています。

最近は「円高」と言われていましたが、為替相場の変動から感じたのは「エンは微落、ドルは暴落、ユーロは上昇」でした。
いつの間にか、2つのスタンダードに慣れていたのですね。
アメリカと意見が異なったら危険だと感じてきた日本人が、複眼的にモノを見るようになったら?
また別の効果が出てくるかも知れません。


3月1日

感情論の暴走

「赦せない」「死刑でもまだ足りない」……多くの人々がそんな感想を持っているあの人物。
感情論としては同感です。
ただひとつだけ気になる言い方があります。
「あんなヤツに裁判の必要はない、即刻死刑にしてしまえ!」
何かの凶悪事件が起きたとき、よく聞かれる極論です。

世間の非難ごうごうと湧き上がる中、彼の弁護団は死刑判決を不服として控訴を決めました。
ただ弁護士の誰も彼の弁護を引き継がないというのには笑ってしまったのですが、国選だもの、仕方ありませんね。
一審ですら「あんなヤツに……」という意見が出るくらいですから、あの判断を支持する人は少ないのでしょう。
私は支持です。
理由は、判断材料に物証がないからです。状況証拠と証言だけ。「クロだろう」「クロに違いない」と思うことと、証拠を元に判断することは別。
「あんなヤツに……」の感情をグッと抑えて、大原則を確認しましょう。
誰もが裁判を受ける権利を持っています。日本国憲法にそう書いてあります。
どんなヤツでも裁判を受けることなしに処罰されることはあり得ません。
万人に適応される。それがルールというものです。
「法の下の」と言えば、中学生でも「平等!」と即答してくれます。

さて、もう一方ではこの大原則が破られているので、怒る場面もあります。
警官の犯罪が報道された時です。
一般の人なら、被疑者となったら、ほとんど例外なく逮捕拘留されます。
ところが、被疑者が警官なら、どんなに悪いことをしても在宅起訴です。
「仲間内には甘いよね!」
テレビを見ながら、怒った人も少なくないでしょう。
逮捕・拘留は誰にとっても著しい不利益です。
だから(たびたび中学生ですみませんが)、かなり社会的な問題に関心の高い子でも、逮捕・拘留は処罰の一部だと考えてしまうのです。(おとなの皆さんは訂正してあげてください。)
警官が在宅起訴されるのは「逃亡の恐れがないからだ」と説明されます。なぜ警官に限って逃亡の恐れがないのか、納得のできる根拠を示してもらったことはありません。
「警官だからと言って、身内に甘くするな。逮捕・拘留しろ」
それもいいのですが、逮捕・拘留を「逃亡の恐れがある時」だけに厳密に限定してしまうというのはどうでしょう?
全員でバカ正直に法律を守るのです。

私達は感情論に流されやすい性向を持っています。
感情論の特徴は暴走しやすいということです。
この暴走をくい止めるための手段を、私達はほとんど持っていません。
裁判を受ける権利を含めて、法の下の平等は、そのささやかな手段の一つなのです。
これを手放すわけにはいきません。たとえアサハラ相手でも。


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