「でかくてごめんなさい」


いつからだったか忘れたが、深谷久美子は中野美香が好きだ。
「恋愛」という意味で好きだ。

物心着いた頃には、深谷は「大きな子」だった。
女の子が「大きい」というのはどういうことか分かっていたから、いや、正確には分からされていたから、子どもの頃は姿勢が悪かった。

反抗心がむらむらと湧き上がってきたのは、中学生になった頃からだったと思う。
運動部ということもあった。深谷は姿勢が良くなった。

男の子達が何か言うわけではない。
寧ろ、何も言わない。
身長170cmを超える深谷が「男嫌い」であっても、何ら問題はなかったのだろう。
それでも、深谷は男女共学の高校へ進学したくなかった。

中野美香とは高校で出会った。
やや小柄で、髪の長い中野に、特に強い印象は持たなかった。
朝、同じ電車に乗って通っている同級生以外の何者でもなかった。
挨拶だけの関係から、言葉を交わすようになり、教室でも親しくなった。
制服でなければ、一見高校生カップルのように見えた。

深谷は制服以外にスカートは持っていなかった。
髪も短くしていて、後ろ姿ならいつも男子高校生に間違えられた。
中野に会えるのは嬉しいけれど、スカートを穿かなければならないのは気が重い。
この瞬間と月経の時はいつも、「女」を生きなければならないという重圧を感じる。

中野が女子大志望だと聞いた時は1日笑顔で過ごした。
理系クラスでトップの中野と同じ大学を受験したい、受験だけでも良いから一緒にいたい。
深谷もそこそこの成績であったため、「やや冒険」程度に見られ、誰にも気付かれずに「偶然」中野と同じ日程で受験することになった。

中野は凄い。

小柄だけれど、笑い声が豪快だ。
話す声も深谷よりも余程大きい。
理系クラスのトップの成績だということを少しも恥じていない。
友人として親しくなればなるほど、深谷は中野を敬愛した。憧憬というのかも知れない。

中野が好き。
中野を悪い虫から守ってやりたい。
何せ、自分には良くも悪くも「虫」が付くはずがない。

その日も満員の電車の中、中野に会えた。
「おはよう」と言おうとして、深谷は脚に違和感を覚えた。

脚に誰かの脚がこすりつけられているような?

満員なのだから、たまたまこういうことになっているのだろうと思った。
中野の方に1歩移動すると、「それ」は追いかけてきた。

「?」

腿に手が触れている?

何かの間違いに違いない。
深谷は身長175cmだ。
セーラー服でなければ、およそ女には見えない筈なのだ。

痴漢であるはずがない。

もう1歩移動できた。
明らかに追われている。

何を考えているのだろう?
腰の高さから、触れている脚の持ち主が相当に長身であることにもう気が付いているだろう。
通常の神経を持った男なら、うっかり「でかい女」なんぞに触ってしまったことに嫌悪感を抱き、追撃を止めるはずではないのか。

脚フェチというやつなのか。

ひょっとしたら、キチガイかも。

中野もさすがに深谷の様子が尋常でないことに気が付いた。
「深谷チャン?」
「中野チャン、あの……」
深谷の眉間に縦皺が刻まれた。
「えー?もしかして痴漢?」

中野の声が満員の車内に響き渡った。
女子高生が何を言い出すのか。
周囲はぎょっとして、黙り込んだ。

「痴漢なら、叫ぶとか、蹴飛ばすとか、つきだすとかしなさいよ!」

深谷の腿から「それ」が撤退した。
周囲の乗客は中野をチラチラと盗み見るが、中野は少しも動じていない。
「大丈夫みたい。ありがとう」
深谷は早口で言った。

姫に守られてしまった。
中野に感謝しているのだが、釈然としない。

痴漢に触られてしまうなど、なんてだらしない、情けない、理不尽なことだろう。
楽しい高校生活を、突如として屈辱的なものに塗り替えさせられたようだ。

教室に着く頃には、中野は電車の中のことなどすっかり忘れている様子だった。
いつまでも些細な事件を思い返して落ち込んでいる自分は情けない、深谷はますます気が重くなった。


中野と揃って進学できた。夢のようだった。

この女子大に複数人数の合格者を出すのは、高校としても久々のことだそうだ。
中野は当然と見られたが、深谷はにわかに有名人になってしまった。
恥ずかしくなるくらい「よく頑張った」と褒められた。
「女の子は全力を出すことを恥ずかしがるコが多いけど、深谷さんは乗り越えたね」
国語科の女性教師のその言葉は本当に嬉しかった。
その教師が、常々同性のだらしなさを腹立たしく思っていることは知っているが、深谷には関係ない。
躊躇無く努力する、迷わず進む中野に少しは近付けたのだろうか。

家庭の事情で進学できなかったという深谷の母は手放しで喜んでくれた。
「女が学をつけるとろくなことにならない」と言っていた父も、「女のくせに大学に行こうだなんて、おまえ何様のつもりだい?」と気色ばんだ祖母も、「おまえが学校ができてもどうにもならないのだから、弟と替われば良かった」と呟いていた祖父も、結局は合格を祝ってくれた。
「家から通学できる大学」であったことも好評の理由かも知れない。

大学の講義は楽しかった。
もともと生真面目な性格の深谷は必死で勉強した。
それは苦になることはなかった。
中野と一緒にキャンパスに通えるのもこの4年が最後と分かっていた。
中野は大学院へと進むだろうが、深谷にその力はない。


女子大とはいっても、男子大学生と合同の「コンパ」なる物が存在することに変わりはない。

年齢を重ねれば、重ねるほど、「フィーメールに生まれたからには一人の例外も許さず、女にならなければいけない」とでもいわんばかりの圧力に晒されることが多くなっていった。
中野を守ると決めたからには、そこにもお供しなければならない。
1年生の最初、真面目な深谷は家族にも「来週の土曜日は友達の付き合いで遅くなります」を告げた。
それが男の子達と同席であることを知ると、深谷の母は女らしさのかけらもない娘のために花柄のワンピースを仕立てた。
親戚が集まると
「久美ちゃんはまるで闘士みたいだ。女の子がいつまでもアレじゃ良くないよ。それでなくてもでかいんだから、せめて態度だけでも可愛らしくしないと嫁のもらい手がない」
と言われるようになってきた。
深谷がまだ高校生の頃は
「うちの娘は真面目なのよ」
と言い返していた母だが、女子大生になっても一向に女らしくならない娘に不安を抱くようになってきた。

母心の現れが、全く似合わない花柄のワンピースである。

深谷自身はほっそりとしていて、寸足らずにはなっても横幅で困ることはないから、女らしい装いが不可能ではない。
ただし、それは本人がそうしたいと思えば、の話である。
母への義務感だけからそれに袖を通してみても、似合おう筈がない。

この仮装でコンパに行けと言われた時は、
「いくらお母さんのいうことでも、それは勘弁して欲しい」
深谷は懇願した。
「だって、女の子がジーパンなんかで出歩かないでよ。いつもの格好よりよっぽどいいんだから」

ご冗談でしょう、ファインマンさん!

中野ですらサマーセーターとスカートなのだ。
中野よりも「女」の格好をするのは嫌だ。
それでも、母に強く言えなかった深谷は駅のトイレで早着替えをした。
その次からはコンパの最中に電話を掛けることにした。


中野以外の友達もできていった。
もともと真面目な女子大生が多数派なので、深谷には心地良かった。
「どんな格好でも深谷チャンは深谷チャンなんだから、……スカートだって変じゃないよ」
友人達は穏やかで優しい。
「背が高いの気にしてペッタンコの靴を履いてる深谷チャンが可愛いって言ってた」
男の子のことは勘弁して欲しいのだが。その度に中野に冷やかされる。
「大丈夫だよ。うちの学校の子に声を掛けてくる男の子なんて小心者で真面目揃いなんだから。遊んでる子は見向きもしないんだから。深谷チャンにはチャンスかもよ」
「女同士の方が気楽で楽しいよ。それに男の子は退屈」

女同士のお喋りに比べてデートの会話は退屈であるというのには、一同頷かざるを得なかった。

女同士の話に禁じ手はないが、男女間では政治や経済、学術、あまりに下品な話はタブーだった。
男達は、他の部分はともかくとして、会話に関しては欧米流のパーティマナーをきっかり守ってくる。
知的に思い上がった彼女達にとって、「男は女を守るべきである」という思潮を持つ欧米文化の男女の在り方は、退屈で仕方がないのだった。
「確かにねえ。真新しいところと言ったら、彼の趣味の話くらいだからねえ」
女同士で不満を言い合うくらいなら、自分から「知的に興奮する方向」へ持っていけばいいのだが、それはできない。
男をリードしようとする生意気な女、と見られるかも知れない。
自分からリードする「癖」を身につけてしまったら、もう誰にも誘われないのではないか。
将来を犠牲にしてまで、今のデートを楽しむ度胸はない。
そこで、いきおい、不満は女同士で解消することになる。

周囲の「彼氏がいる」女の子達ですら、そんな調子であったので、「本当は気を遣うばかりで楽しくない」お付き合いをする気にはならなかった。
中野も自分と同じだと思っていた。
いや、自分以上に恋愛にはドライなはずだと思っていた。


中野が深谷にボーイフレンドを紹介したのは、成人式の前の週末のことである。
容姿は平凡だった。
ただ、深谷は1分で彼を嫌いになった。
名前よりも、中野とも付き合いの長さよりも、まず「でかい」という感想を述べ、ついで「身長、どのくらいあるの?」と聞いてきたからだ。
深谷は聞こえなかった振りをした。
そこで、自分が相手にとって如何に不愉快な質問をしたのか、考えて欲しかった。
しかし、彼はそのような思考になれていなかったので、重ねて
「何p?170以上あるよね? でかいなあ。彼氏見つけるのに苦労するでしょ?」
大きめの声で質問を繰り返した。
これは、深谷にとって、彼を「嫌な男である」と確定付けるのに十分であった。
「悪いけど、中野チャン、今日は早く帰らなきゃならない用があるから、もう行くね」
彼の方は一瞥もくれずに、中野に非礼を詫びて、その場を逃げた。

幸い、中野は実験が立て込んでくると、彼のことを忘れてしまった。
ただ、小柄で大人しそうに見える中野は「フリー」になると、様々な男子学生から付き合おうと言われていた。
中野は特に選り好みするでもなく、数日から数週間「つきあって」、たいていの場合自然消滅してしまうのだった。

深谷に交際を申し込む男子学生はいない。
女友達は不思議そうに言う。
「大きい、と言っても、深谷ちゃんの場合、縦だけで横幅はないのにね」

それでも、20歳を越えると、深谷が嫌がることは決して口にしない男子学生とも知り合うようになった。
深谷は初めて、男性とも交友があっても構わないと思うようになった。
ただし「友達として」であるのは言うまでもない。


大学4年間、結婚の約束を交わした子もいるし、中野のように不定期に浅い付き合いだけを繰り返した子もいる。
勿論、深谷のように純潔を守りきった子もいる。
純潔を守りきったことは、当然自分の意志であったけれど、自慢にもできなかった。
20歳を過ぎて処女であることは「気持ち悪い」と言われるようになっていた。
あまりにもばかげた価値観であると、深谷は思う。
だが、女にだけ貞節を求めた過去の道徳への反発として、単純に「経験者」でさえあれば処女よりも価値があるとする考え方に、正面切って反対する気もなかった。

真面目に勉強してきたから、大学での成績は驚く程良かった。
「優」が8割、「良」が2割。
ただ、それは、あくまでも深谷の勉学態度に対する評価であり、能力に対する評価ではない。
十分自覚していたから、「中野と一緒に大学院へ」などとは考えなかった。


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