「繭問屋」


泉町の問屋街のほぼ中央に位置する三園商会では奉公人を一人必要としていた。
この好景気で、なかなか「これ」という人物が見つからなかった。
そんな折り、大旦那と親交の深い三嶋氏から紹介があった。
三嶋氏は大旦那の弟と豊浜中学で同窓であったという縁なのだが、不思議に兄である大旦那と気があった。
そこで、問屋街に所用で来た時には必ずや三園商会に立ち寄っていく。

三嶋氏の紹介は女の子だという。
それはかまわない。
腕力というより、集中力を必要とする仕事をやってもらいたいのだから、給金が安く済む女の子ならむしろ好都合と言えた。
問題は、その子が山奥の尋常小学校を出て、すぐに奉公に来たという経歴の方だ。
きちんとした文字が、しかも素早く書ける人間が必要なのだ。
いくら安くても、不必要な奉公人など雇いたくない。
それが、三嶋氏はいやに熱心で、自分が保証するから是非とも会って欲しい、そうでなければ不憫な娘に合わす顔がないのだ、と頼み込むのだった。
そこで、仕方なくその子に会うことを約束した。

三嶋氏に連れられてやってきた女の子は可憐な美少女だった。
三園商会の老夫婦も若夫婦も「さては、あの熱心さは、この娘に手を付けたのが奥方の知るところになったためか?」と一瞬考えた。
しかし、それにしてはこの娘では幼すぎるし、可愛らしいばかりで色気がない。
「こんな綺麗な子なら、お向かいで欲しがるんじゃないかねえ」
大奥様がつぶやいた。
三園商会の向かいには女郎の置屋がある。
三嶋氏は慌てた。
「いやいや、そんなことをしたら、それこそ娘が嘆き悲しむ。この子にはなるべく堅いところがよろしいので、お宅はピッタリだと考えたのです」

若奥様が紙と鉛筆を持ってきて燿に渡した。
「今から言う漢字を書いてごらん。なるべく早く書くんだよ」
そこで、大奥様と若奥様とで、人名に使いそうな漢字を片っ端から言った。
燿はすらすらとそれらの文字を書いて見せた。
大奥様と若奥様は顔を見合わせると、若旦那の方を見て頷いた。

「雇いましょう。春夏は御店で、秋冬は家の女中として、どうです? 勿論、春夏に家の女中の手伝いをさせた時には、別途給金を支払いましょう」
若旦那が算盤を見せながら答えた。
「この子は秀子が仕込んである。見習い期間が過ぎたら、もう少し色を付けてもらいたい」
「では、細かいことは番頭に決めさせましょう」

そこで、番頭が呼ばれた。
番頭は四〇前後といったところか、実直そうな風貌の男である。
「染子(若奥様の名前)に代わって付け木の仕事をしてもらおうと雇った子だよ。
三嶋様のご令嬢の薫陶を受けているというので、秋頃から女中の仕事をしてもらうつもりでいるのだが、春夏の間は番頭さんに一切をお任せします。
できそうな仕事を見繕ってやってください」
番頭は燿を上から下まで眺め、ついで彼女の手元の文字を見て、
「かしこまりました」
と頭を下げた。燿も
「一所懸命に務めます。よろしくお願いします」
と深く礼をした。

それから、燿は住み込む部屋に案内された。
この家の女中は一人だけなので彼女と共同になる。

三嶋の旦那様と三園商会の大旦那が将棋を始めてしまったので、燿は先に帰ることになった。

泉町の繭問屋で最も手広くやっているということで、お店の方は活気があったし、チラッと見えた若旦那の算盤……
あれで大変明るい気持ちになったのだ。
仕送りは今まで通りの額にしておくとして、今年中に太助の進学資金がたまる。
さらに三嶋の旦那様のお陰で上乗せされるなら、燿のお金に関する苦労はほとんどなくなるのだ。

耀の望みは太助の進学、そして、燦とサクの嫁入り支度を整えてやることに変わっていた。
もし、燦に「いい人」ができて、その人が、
たとえば真面目に自小作でやっている農家の息子とか、
たとえば中流家庭の奉公人だったり、
たとえば定収のある職工だったり、……
誰もやっかんだりしないほどの釣り合う人であったなら、きちんとお嫁に出してあげたい。
自分自身は、いい暮らしをしたいとか、珍しいものを食べたいとか、おしゃれをしたいなどとは少しも思わないのであった。
一生家族のために働いて、自分自身に何の見返りが無くても良いと思った。

……あのかたが……私が一瞬罰当たりな夢を描いてしまったほどに熱く……私を抱きしめてくださったんだもの。

豊浜停車場で馬車を降り、三嶋家の屋敷に向かう。
途中、寄り道をしていたらしい本郷桃子と会った。
桃子は燿を見つけると、友人達に手を振って、駆け寄ってきた。

「こんな時分にどうしたの?」
桃子は楽しそうな笑顔をしていた。
「新しい奉公先が見つかったので、旦那様に連れて行って頂きました」
桃子は微笑んだ。
「それはよかった。
うちでも心配していたんですよ。お嬢様に付いていっても地獄、お家に戻っても地獄、って兄が言ってました。
ここに残れて良かった。で、どちらですか?」
「泉町の三園商会さんです」
「まあ! なんて粋な計らい! あそこはそりゃあ厳しく算盤を教えてくださるんですってよ。うちにお嫁にくるなら、算盤はできた方が良い。早速家の者に教えてあげなくちゃ」
桃子は気の早い質であるのか、どんどん話を進めてしまう。
耀は慌てた。何から、なんと言っていいのか?
「私は……そんな……」
「あら? 母も私もてっきりそういうものだと思っていましたよ。お式は来年じゃ早いかしらね、って。
兄はまだぐずぐずしているんですか?」
「……あの……わかりません」
「まさか……燿ちゃん、あなた……」
「………?」
「薩摩の者じゃないでしょうね?」
桃子は悪戯っぽい微笑みを浮かべた。
豊浜は徳川縁の土地柄である。
父母の世代はそんなことにも拘るが、桃子自身は「日本は一つになったのだから、いつまでも薩長憎しでもないでしょう」と考えている。
「ちがいますっ!」
「薩摩でなければ問題ないわ」
「問題はいろいろあると思います」
「何を気弱い事言ってるのよ? 私達はおねえさまとはちがうのよ。
可哀相なおねえさま……泣く泣くお嫁に行かれるなんて。
せっかく大正の御代になったってのに、あれじゃ明治の昔と同じじゃない? 八重山さんは巡査に連れて行かれちゃうし。おねえさま、最後にお会いすることもできなかったんですってね?
お家柄がいいってのも考え物だわ。」
耀は桃子の勇ましさに圧倒されるばかりだ。
一緒に歩くうちに、いつの間にか坂の下の分かれ道に来ていた。
「燿ちゃん、算盤頑張ってね」
桃子はもう一度言った。
「はい。桃子さんもお元気で」


翌日燿は自分の荷物を運びこんだ。
荷物を片付けると、彼女は乾燥場に連れて行かれた。
「明日になると蛾になってしまうから、今晩中に蒸殺するんだ。
身重の若奥様を輪番から外して、正直辛かったんだ。
おまえは競りのところから仕事だから、あまり遅番じゃない方が良いだろう。八時くらいに代わりの者が来るから、それまで火を絶やさないようにしっかり炭を見張っていなさい」

乾燥場は「工場」と言っていいだろう。
かなり広い。
広いがどこにも涼しいところがない。
交代の時は、髪がびっしょりまとわりつき、真夏の犬のような息遣いになっていた。

とりあえず頭から水をかぶり、手早く着替えた。
たった一人の女中が台所に連れて行ってくれた。
「私はヨネっていいます」
燿はびっくりして麦飯を噴き出しかけた。
「豊浜の人ってみんなモダンな名前かと思ってました。私は燿です」
ヨネの方はそれで気を悪くした様子でもない。
「だって私は豊浜でも泉でもないもん。深山村の百姓の娘だよ。アキちゃんは?」
「私は、東京よりもずっと北の麦束村。私も百姓の娘です」
「そりゃ、思い切り遠い旅をしてきたんだねえ。ま、似た者同士よね。みんな私を、ヨネさん、って呼ぶから、あんたもそう呼んでね。……アキちゃん、でいい?」
「はい」
「私は一六よ。アキちゃんは?」
「一四です」
「えーっ? 高等小学校でたばかりなの?」
「でてません。だからもう丸二年働いています」
「……はぁ……悪いこと聞いちゃったかな。でも、あんた、有望だよ。今晩から早速稽古だって。厳しいよー、ソロバン」
「聞いてます」
「私なんかひと月で番頭さんがお手上げ。でも、そのときちょうど女中さんがお嫁に行くので辞める頃でね。女中として雇ってもらえたの」

陽気でおしゃべり好きなヨネの性格の良さが買われたのだろうが、大戦景気も幸いしたに違いない。
料理の腕には少々難ありだと思った。
三嶋家の残り物のせいで、燿はかなり舌が肥えてしまったのだ。

尋常小学校ではろくに算盤を習わなかった。
町中の学校ならもっと勉強していたのだろうが、農村では「不必要」と見なされていた。
今まで女中の仕事は難なく覚えてきた耀だったが、算盤はそう簡単にいきそうになかった。
燿に教える番頭の顔つきがだんだん厳しくなっていった。
「きょうはここまで」に正直ほっとした。

稽古が終わると、頭も身体もくたくたになって、燿は泥のように眠った。

燿もヨネも夜明け頃に飛び起きた。
ヨネは台所、燿は競りの行われる乾燥場に向かった。
競り台を用意し、繭を籠の中に手早く入れていく。
仲買人達は競りが始まるかなり前から集まっている。

競り落とした仲買人の名を付け木に書き、籠の上に置くのが耀の仕事である。
「二ツ口、田豊」(田辺豊吉)「三ツ口、渡伝」(渡瀬伝十郎)といった具合である。
初日は二回
「ぼやぼやするんじゃないよ」
と若奥様に叱られた。
つまり若奥様が見かねて何籠かを担当したのだった。

競りが終わり、つかの間の休憩に入った。
「燿、チンチン電車が着いたら、仲士達が大挙してくる。おまえ、秤は扱えるか?」
「料理の秤なら使っていました」
「よし、その仕事も覚えてもらおうか」

仲士というのは、養蚕農家から繭を買い集めて、問屋に売りに来る商人達である。
仲士達は籠を背負い、チンチン電車に乗ってやってくる。
そのため泉町のチンチン電車の駅前は仲士相手の商売が繁盛し、華やいだ雰囲気があるという。

仲士から籠を受け取り、大きなだるま籠に移し替える。
確実に繭だけを移さなければならない。
籠の下の方に石を隠して重量を稼ごうとする不届き者がいるからだ。
だるま籠を秤に乗せ、燿が目盛りを読み、番頭が仲士に繭賃を渡す。
買い取った繭はすぐに乾燥場に運ばれるのだった。

「随分と別嬪さんを入れたなあ。お向かいと間違えてるんじゃ無いかい?」
口の軽い仲士もいる。
彼は燿が作業をしている間も喋り続けた。
「ねえちゃん、いい人いるの?」
燿は構わず目盛りを読みとっていく。
「チェッ。つれないなあ」
後ろから
「おいおい、新入りを苛めるなよ」
といった声も飛ぶ。
「残念だったね」
番頭が大きな声で言った。
「この子には言い交わした人がいるんだよ。適齢になるまでウチで預かっているのだから、ちょっかいだした者は取引を停止するぞ」


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