最初の一週間は叱られてばかりだった。
二週目にも無我夢中だった。
三週目になると、若奥様が一度も競りに顔を出さなくなった。
算盤の方も一ヶ月でうち切りということはなく、相変わらず続く。
夏が訪れた頃、漸く「少しは指が動くようになった」と言われた。
繭を持ち込む仲士達ばかりでなく、競りに来る仲買人や、直接買い付けに来る信州の製糸屋の主人や番頭にも顔を覚えられた。
あっという間に四ヶ月が過ぎていた。


「かなえぬ恋」


「いいなあ、アキちゃんは。本当に『いい人』がいるとは思わなかったって、みんなが言ってたよ」
ヨネが布団に入ってから言った。
ヨネとのおしゃべりは他愛ない。
三嶋家では知的に思い切り背伸びをしなければならなかったが、ここでは気安い。
しかし、「いい人」とは?
「豊中五年、漕艇部の主将さんでしょ? 来週は遠漕で来られないなんて残念ね」
燿は飛び起きた。
「遠漕?来られない?」
動揺して、自分の心臓の鼓動がいやに大きく聞こえた。
「新聞に写真入りで出ていたんだって。見覚えのある顔だから分かったって、大旦那様が言ってたよ。ご隠居様って暇そうだよね」
「私、知らない。本郷様がここに来たんですか? いつ?」
「たまに仲士の列に混ざってアキちゃんのこと見てたんでしょ? それで、大旦那様がピンときてサー、呼び止めて聞いたんだって。そしたら」
ヨネは器用に声音を変えて
「僕はアキちゃんの友達です。仕事を頑張っている様子なので、声を掛けずに帰ります」
と言った。
そのようなやりとりが近くであったことも知らず、彼女は乾燥場の方へ走っていたはずだ。
「寝なよ」
ヨネが燿の袖を引っ張った。
燿はそれに従いはしたものの、胸一杯に広がった「何か」が彼女の神経を刺激し続けていた。


朝から酷く頭痛がした。
午前中は何とかもったのだが、目盛りを読んでいるうちに目が回ってきた。

視界が効かない、
真っ暗だ、
不思議、
周りでは大騒ぎをしているようだけど何だろう?

とにかく確かめよう、と思った時、燿の身体はふわりと浮いていた。
気が付くと、新吉という奉公人に抱きかかえられて、女中部屋に戻されるところだった。
畳の上におろされると、燿はわっと泣き出した。
「おいおい、悪かったよ。ただ、この場合仕方ねえじゃないか。だから、妻子持ちで、一番年寄りの俺が、おまえさんを運ぶことにしたんだ。父親に抱っこされたようなもんだ」
燿は尚も
「新吉さんが悪いんじゃないんです。私、目を回して倒れたんですね? 親切な方だったら、誰でもこうしますもの。分かってるんです。でも、私、自分が情けなくて、情けなくて……。どうして、ちゃんとこらえられなかったんだろう」
と言いながら泣き続けた。

新吉は帳場に行って、若旦那に
「あれは手が付けられない」
と報告した。
「困ったなあ。正直、あの子が女達の中では一番の戦力なんだがね」
「よし、俺が一丁豊浜まで行って、漕艇の主将さんをつれてきまさあ」
そこへ若奥様が顔を出した。
「まあ、バカなことを。こんなところに好きな人を連れてきてごらんなさい、あの子の方が納まりがつかなくなってしまいますよ。泣くだけ泣いたら、寝かせておきなさい。ヨネが余計なことを言ったらしいの。おおかた、好きな人のことを思いだして、寝不足になったんだろう」
「それならなおさら会わせてやった方が良いんじゃないか?」
「きょうはダメですよ。きっとバカなことを言います。大人しそうな顔して、思い詰める子ですからね、とんでもないことをしでかしかねませんよ。冷静になるまで、そっとしとくのが一番。女の子の使い方なら私に任せておきなさい」
「染子がそういうなら……」

そこで若奥様はヨネを呼び、引き出しを開けて水飴を取り出した。
「これを燿にやりなさい。いいかい、くれぐれも燿にやるんだよ。競りには元気で起きてこられるように、もう寝てしまえ、と言いなさい」
「はい」
ヨネは水飴を受け取ると、にっこり笑った。

確かにヨネは一口も付けずに、水飴を燿に渡した。
「若奥様がお食べって。で、もう寝ろっていってたよ」
「わあ、うれしい」
「いいなあ、アキちゃん、一口でいいんだけどなあ」
「ヨネさんも一緒に半分こしましょ」
「いいの?」
「うん。ヨネさんと一緒の方がきっと美味しいもの」

2人で水飴を口に含んだ。
しばらくは甘みの幸せに浸ることにした。
それから、またおしゃべりに戻る。
「アキちゃんは頑張りやさんだからなあ。抜けられるとキツいって、みんな言ってたよ」
「ごめんなさい」
「そういうんじゃなくてさ。元気になって欲しいんだよ」
「昨夜寝そびれちゃって」
「主将さん?」
たぶん涙ぐんだのだろう。
ヨネが慌てた。
「新吉さんみたいなおじいちゃん、気にすることないよー。若旦那とか仲士の佐助さんならともかくさ。私はそっちの方が良いけど」
「佐助さん……」

一番若い仲士だ。
おそらく家業を継いで間もないのだろう。
石を入れてきたことは、あった。
番頭さんにどやされて、縮み上がって、それから不正は一度もない。
「根が正直な人だと思うわ。ヨネさんとお似合い」
「えへへ。アキちゃんくらい可愛ければ、言い寄ってくる人も多いでしょうね。あ、だめか。主将さん見たら、みんな引っ込んじゃうよ」
「……ご立派な方なのに、どうして私のような者に関心を持たれるのか、分からないわ。全然釣り合いやしないのに……困ってしまう」
「何を困ることがあるの?私がアキちゃんだったら、主将さんのお妾さんにしてもらうなあ」
「お妾さん……に?」

故郷の父母が、どこかの旦那を引っかけて、と言っていた。
燿は大変に反発したのだが、結局そうするしかないのだろうか?
だが、荘一朗に二人妻は似合わないと思う。
私はあの人の奥様を苦しめる存在になるのは嫌、あの人は奥様の元にお戻りになるのだ、その時に奥様は泣いていらっしゃるのではないか……。
「違うわ。私、召使い……、そうよ、あの人の召使いになりたい。そうすれば毎日お会いできるんだもの」
「あんた、変わってるね」
「変わっててもいいの。今、決めたの」
燿が本当に嬉しそうに微笑んだので、ヨネも何となく納得してしまった。

眠りにつく頃にはもう心が晴れ晴れとしていた。
何故今まで思いつかなかったのだろうと、不思議に思えた。


HOME小説トップ「恋しきに」1次へ

inserted by FC2 system