「幼妻」


馬車に乗る時に、荘一朗はちょっと手を貸してくれたのだが、その時以外は彼は燿に背を向けたままだった。
汽車の中ではずっと車窓を見ている。
耀も押し黙って俯いていたのだが、とうとう耐えられなくなった。

「あの……こんなにお世話になったのに、お礼も申し上げず……。
本郷様、ありがとうございました。私ども、どんなに感謝しても感謝したりません」
「………」
「それなのに、妹までが勝手なことを言って、申し訳ありませんでした」
「………」
荘一朗は振り返ってもくれないのだ。
せめてこちらを見て欲しい、耀は焦るばかりだった。
「私もご親切にすっかり甘えてしまって。何年かかっても、かならずお返ししますから」
誠意を伝えたいと思った。
はじめて荘一朗が耀の方を向いて口を開いた。
「……金に汚い女だな」
「………!」
「清純な人だと思っていたが、見誤っていたんだ。
僕こそ申し訳なかった。僕の理想を勝手に君に押しつけていたらしい」
「………」
「治療費のことなら、いいんだよ。僕がそうしたくて、したことなんだから。もういいから、忘れてくれ」
荘一朗は再び外に視線を移した。

「そんなことを仰らないで」
彼女は彼の正面に回って、膝を付いて懇願した。
「本郷様には何も悪いところなんかないんですもの。きっと私が何か悪いことをしたのか、言ったかしたんだわ。
でも、自分でも何が悪かったのか分からないんです。あなたに助けて頂いてどんなに嬉しかったか知れないのに、あなたをこんなに怒らせてしまうなんて……。
お願いです、私を罵倒して、私をぶってください」
「どちらもできないよ。それより、君、座席に座っていなさい」

燿の言うことはだんだんむちゃくちゃになってきた。
荘一朗は実際迷惑していた。
東京までの路線には「人なつこい」人物が多く乗り合わせているのだ。

燿は黙って座席に腰掛けたが、程なく泣き出してしまった。
涙が出始めると止まらない。
軽蔑されることは覚悟していたのだ。
だが、それはあくまでも彼女の素性の卑しさに対してのことだった。
素性同様に心までも卑しい、そして自身では少しも気が付かなかったことが辛かった。
やがて彼女は声を上げて泣き始めてしまった。

「にいちゃん、もう許してやったらどうだね?」
周囲に人垣ができていて、何人かが口々に言った。
荘一朗は漸く、横に座っている燿が声を上げて泣いていることに気が付いた。
彼は立ち上がり、人垣をかき分けて、出入り口の前に立った。

人垣の中の中年女性が数人
「あんた、何したの?」
「ご主人にちゃんと謝った?」
「心配するこたねぇ。きっと戻ってくるから」
途方に暮れて泣いている若妻(だと思っている)を慰めようとした。

人垣がまばらになった頃、荘一朗は燿の横に戻った。
「私、どうしたらいいんでしょう?」
やはり、彼女は可愛い。
好きなようにしたら、とはとても言えなかった。
「君の真意が分からない。それにどうせ今の君に話してくれと言っても、無理なんだろうね。だから、とりあえず保留さ。
でも、治療費なんか本当にいらないんだぜ、才女さん?」
「………」
「三嶋さん、いや、西条夫人か。会っていかないか? 皇居のすぐ北側だろ」
「いいのかしら?」
「君を見れば喜ぶさ」


荘一朗が病室で、燿がサクを抱いて寝ていた頃、秀子は腹痛で伏せっていた。

夫は出掛ける支度をしていた。
彼女が応じられないというだけではない。
やはり、幼さの残る妻よりも、女の色香がある妾の方が好ましいのだろうと思った。
妾とは言っても、本妻の秀子よりもかなり年上で、つきあいもずっと長いのだった。
彼女に言わせれば、秀子こそ出しゃばりの新参者に相違ない。

支度が整い、出掛けるようだ、と思った時、襖が開いた。
夫が入ってきた。
彼女は目を閉じたままでいた。
嫉妬に狂うのは貴婦人らしくないし、かといって分かっていて止めないのも冷たいように思える。
何も知らない、無邪気な振りが結局のところ一番楽だと思った。
夫は彼女の胸元に手を入れた。
掌で乳房をもてあそびながらつぶやいていた。

「高女で主席、日本女子大学校に行かせろ、か……、おまえは可哀相な女だ。
男に生まれていれば、おまえの性質はことごとく美徳になっただろうに。
やはり、おまえは雅之に似ている。一緒にいると息が詰まりそうだ。
……婦人運動とやらが盛んな昨今だからな、おまえでも俺の妻でさえなければ幸せになれたかもしれんな。
それでも……」
彼は言葉を止めた。


翌日の夜になっても帰ってこない。
そればかりか、舅姑まで急に芝居見物に出掛けてしまった。
ひとりぼっちの食卓は、結婚してから俄然回数が増えてしまった。
その時、友人の訪問が告げられた。

玄関に出てみると、懐かしい荘一朗と燿であった。
「燿ちゃん! 会いたかった」
秀子は燿を抱きしめた。
「奥様、ご一緒にお食事なさったら如何でしょう? どうせ、四人分の準備をしてあったのですから」
松が勧めた。
「そうね。……燿ちゃんと一緒の食卓なんて、初めてね。お二人ともこちらへどうぞ」

久しぶりに会った秀子は確かにやつれて疲労の色が見えた。
三人で客間に入ってしまうと、秀子はほっと息を吐いた。
「不幸な訳じゃないわ。もっと辛い思いをしてらっしゃる方なんかいくらでもいますもの。幸せなふりをするのが辛いの」
「幸せじゃないんですか?」
荘一朗が申し訳なさそうに聞いた。
「幸せでなければならないと思ってます。
岡宮さんは結局私を手放したのだし、八重山さんは会いにすら来てくださらなかったわ。
約束していたのに……やはり、お互いの家柄に相応しいところに収まるべきだと考えたのでしょうね。
だから……豊浜に帰ったら、私が幸せそうにしていたと言ってくださいね」
「そんな虚飾に満ちた生活なんかに何の意味があるんです? 僕たちと帰りましょう」
「だめです。私が帰っても、夫は迎えになんか来ません」
「ご主人を愛してらっしゃる?」
「分からないわ。でも、嫉妬心はあるんです。
本妻でありながら、お妾さんに嫉妬するなんて、恥ずかしいわ。どなただってお妾さんのことなんか放っておくのに」
「秀子さん、八重山さんは……」
「聞きたくない。言わないで」
「でも……」
「ね、燿ちゃん、わかったでしょ? 少女の恋なんて無力なものです。私は意地だけで生きているようなものよ。
恋なんかするものじゃない、結婚なんかできるだけしない方が良い、私本当にそう思うの」


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