「不入斗にて」


長屋式の狭い部屋に八重山松吾は一人で暮らしている。
釈放された後、彼は豊浜を出ようと考え、岡宮雅之のつてを頼った。
雅之の父は豊中の同窓生に頼み、松吾を紹介した。
この好景気で働き口はいくらでもあるのだが、松吾としてはこの職と思い定めていた。


この春から、荘一朗が月に二,三度、米だの味噌だのを持って訪ねてくるようになった。
女性を連れて行くかも知れない、と予告されているが、燿のことではないかと推察している。

豊中生のマドンナであった秀子に対しても、幼なじみであったゆえか、冷静だった。
それなのに、燿に会って「何という賢い子だろう」と感嘆していた。

「なるほど、あの子にガクはない。だが、あの子は遠く離れた家族を思い、無欲で、正直だ。
そして、文明の持つ威力を見抜く目もちゃんと持っている」
というのである。

「もしあの子と結婚するなら、野合の夫婦だぜ」
とからかったこともある。
「野合で結構」
と彼は真っ赤になりつつ断言した。


松吾も燿も寡黙な方であるから、ほとんど話したことはない。
ただ、燿は見ていれば分かる子である。
分際を知る彼女は一歩引いているが、心から荘一朗を尊敬している。
泥土に生い育っているような彼女を、花開かせてやりたいと願うのは、人情というものだろう。


梅雨が明けたらしい日、荘一朗がやってきた。
「もう一人いる」と言うので、
「さあ、むさくるしいところへどうぞ、燿ちゃん」
と歓迎しようとして、絶句した。

荘一朗の後ろに立っていた佳人は、雰囲気がかなり変わってしまったが、彼がかつて憧れた女性であった。
どういう態度を取って良いものか、全く思いつかない。
「俺は彼女が略奪されていくのを黙ってみていた」という負い目が未だに彼にのしかかっている。

「お久しぶりです」
秀子の方から会釈した。
八重山も慌てて会釈を返した。

「八重山さんのところ座布団無いまま?」
荘一朗が既に室内にいた。
「座布団なんかいらないわ。何をご馳走してくださるの?」
「いつも本郷さんとはろくなもの食べてないんで……」
「茶碗、無いんですよね? また握るんですか?」

秀子が「熱い」と騒ぐので、男二人で握り飯を作り始めた。
その間、秀子は「ひじきの煮付けを作る」と言って、たすき掛けになった。
もっとも、彼女にたすき掛けされると、薙刀を振り回されそうで怖いのだが。

「西条さんも奥さんになったんだね」
「残念でした。嫁入りしてから台所を見たことすらありません。女学校で教わった記憶が頼りよ」

貧しい食卓だね、といいながら、秀子にも八重山にも楽しかった。
不意に秀子が奇妙なことを言い出した。

「ねえ、本郷さん、私あなたにもらっていただけば良かったわ」
「え? 俺?」
荘一朗は酷くむせた。
「そうよ。私がどんなにはねっかえりでもあなたなら驚かないでしょ?」
「まあ、一緒に木登りした仲だから」
「でも、だめね。この通り、家事なんか全然できません。こんなに役に立たない嫁ではあなたのご両親が許しませんわね」
「そんなことない。旨いです」
荘一朗も八重山も紳士である。
声を揃えて、秀子の料理を誉めた。


三人で海岸に出た。
既に何人かの男達が海水浴を楽しんでいたが、そのうちの1人の妻女であろうか、勇ましげな婦人の姿も見えた。

「ん……あら?……平松様?」
秀子は慌てて松吾の後ろに隠れた。
「見つかったら大変。あのかた、主人の同期のかたの奥様なの」
「何も悪いことはしてないじゃないですか」
「してませんけど、あのかた達きっと平松中尉のご一行だわ。どなたか邪推したら、主人が恥をかきます」
「……行きましょう。ややこしいことになっても困る」

逃げながら荘一朗が笑い出した。
「さすがにお江戸。威勢のいいご婦人だ」
「そうでしょう? 私もあのかた大好き。私が主人から少しは優しく扱われるようになったのも、もとはといえば平松様のお陰なの」
「え?」

荘一朗も八重山もぎょっとして立ち止まりかけた。
秀子を追いかけながら、
「どういうことです?」
と聞いた。
「主人は『悋気請』なんて言いますけど、陸軍士官学校二六期生の夫を持つ本妻同士で仲良くしてるんです。
声を掛けてくださったのが平松様で、最近まで庭球をしてましたの。今は中断してますけど」
その前が問題なのだ。
秀子は何と言った?
「そういうことではなく……。ああ、そうか、西条さんは士族だったね」
「?」
「僕ら町人には家内安全が大事です。夫婦が互いにいたわり合うのは当然だし、妻の悋気は夫の恥だ。夫の身持ちの問題なんだ」
「……いいわね。あなたの奥様になる燿ちゃんは幸せね」
「去年の暮れ……、辛そうだったね」
「あの時は、私、具合が悪かったの。もう忘れてください。
本当に今は大丈夫。主人はとても優しくしてくれるわ。
最初は怖かったけど、今は違います。
それに、大抵の嫁が悩んでらっしゃる舅姑との仲だって、全然問題ないんですよ。とっても可愛がってくださるんですもの」
実家に報告するのと同じように彼女がよどみなく喋ると、荘一朗の方が言いよどんでしまった。
「僕らは友達じゃないですか」
八重山がつぶやいた。
「……うん……頼りにしてます。……そうよね、友達ですもの。何も悪いことなんかしていないんだもの」
そう言って前方を見た秀子の足が止まった。

その地にはかつて鈴ヶ森の刑場があった。


荘一朗には付き合いきれないので、停車場で待ち合わせることにした。
秀子も八重山の部屋へ引き返した。
積もる話があるはずだが、何も言えない。

何かを話すどころか、彼女は疲れていたらしく眠ってしまった。
八重山は秀子の胸元に手を触れかけたが、手を止めた。
無防備な彼女はあまりにも清らかだった。
眠らせてやろう、彼は彼女の側に座り込んだ。
そのうち彼もうとうととしてきた。

「ごめんなさい……許して。……許してください!」
秀子が酷くうなされ、八重山が飛び起きた。
「秀子さん!」
肩に手を掛けようとした時、彼女は顔を背け、両腕で顔と頭を庇うような仕草をした。
「秀子さん!」
手を取った時、彼女は目を開けた。
「………」
「大丈夫?」
「……いやな夢だわ」
彼女は肩で息をしていた。
「どんな……?」
「地獄に堕ちたの」
「………」
「鬼のひとりが主人だったの。
………。
ねえ、八重山さん、私は罪人なんかじゃないわよね?」
「当然ですよ。少なくとも、僕はあなたほど清らかな女人は知らない」
「それは買いかぶりです」
「夢は五臓六腑の疲れです。気にすることはない」
「そうよ……私、地獄に堕ちなければならないほどの悪人じゃないんだから」
「あなたが犯罪者になることはあり得ませんよ」
「………」
「さあ、そろそろ待ち合わせの時間だ。行かなくては」
「そうね。どうもありがとう。あのね、八重山さん」
「はい?」
「私、もうここへは来ません」

停車場では荘一朗が待っていた。
八重山は2人を見送った。
彼女が目を覚ます直前に、自身を庇うような仕草と一瞬見えた二の腕の痣は、目の錯覚であったと思いたかった。


秀子の帰りもやや遅かったのだが、功喜の方は真夜中の帰宅だった。
彼が帰るなり布団に倒れ込んだのは物音で分かった。
「おい、秀子」
倒れたままの夫が呼んだ。
「はい」
「ここへ来て、腰をさすってくれ。疲れた」
そこで、彼女は立っていった。
「どうなさったの?」
「………1日中座っているのも疲れるものだ。馬では慣れているのだが、自動車は勝手が違うらしい」
自業自得ではないかと思ったが、勿論そんなことは言わない。
ひたすら手を動かしている。
「あいこだな」
「あいこ、って? 何ですの?」
「おまえも男とよろしくやったということさ」
「男? 本郷さんのことですか? まあ、呆れた。
あの人はご近所の旋盤工場のご子息なんですよ。乳呑み児の頃からのお友達。今さら男だとか女だとか、関係ないことですわ」
「そういうものかね?」
「ええ。当然です。神仏に誓ってもいいわ」
「それもそうだな。工場の息子か。士族のおまえが平民の男を相手にするはずもなかったな」

平民でも立派な方はいます、
秀子は誤解を招かないように何も言わなかった。


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