「真面目でまっとうな人々」


粟本ヤス子は一人で娘を育てている。
西条功喜は自動車を運転してくるため、しばしば顔を出す。
最初の子に対する感情は格別なのか、それともヤス子の産んだ子だから愛しいのかよく分からない。

ヤス子はいつも機嫌良く夫を迎える。
「正義の人」である本妻が息苦しいというので、せめて自分が愛想良くしようと思う。

「真面目でまっとうに生きるように生まれついている人間があるのだ。俺の従弟の雅之がそうだ」

功喜は煙草の煙を吐きながら、無表情に言った。

「ああ、秀才だとかいう人ですね。本妻さんの元々の婚約者だった……」
「そう。あいつは二度と秀子に会わないつもりらしい。秀子も同じだな。
筋を通すことがそれほど大切なんだろう。気の毒なことだ」
「秀才さんが人妻になった恋人を奪いに来たりするもんか」
「来やしないさ。雅之の言う恋愛なんぞその程度の物だ。所詮頭の中の出来事なんだ」
「あらあら、真面目な人にそんなことを……。可哀相ですよ、およしなさい」

功喜は苦笑した。
「不思議だな」
「何がです?」
「おまえが『およしなさい』と言っても少しも腹が立たぬが、
秀子が手を付いて『おやめくださいまし』というと、革鞭で殴りつけたくなる」
「………」
「本気で殴りゃせんよ。頭の中も、肌付きも男だが、あれでも一応女だ」

「可哀相」
ヤス子は夫に抱きついた。
「言うこととやることがあべこべじゃないか」

あべこべじゃないよ、とヤス子は思う。

可哀相なのはあなただ、
あなたは弟さんといい従弟といい、本妻さんまで、真面目でまっとうな人たちに囲まれているんだもの。
でも本妻さんは女、とびっきり綺麗でそれなのにいじらしい女だもんね、
憎いはずの本妻さんのことを好きになってしまったんだね。
今さら認められないよね。
でも、私は教えてあげないよ。
あなたを本妻さんに渡したくないんだから………。

娘の由子も順調に夫になついていた。
おしめを替えたり、あやしたりはしないが、時折ぎこちなく抱いたりしている。
役者といっても通ってしまいそうな美しい男が、赤ん坊を抱いているのは様にならない。
しばしば来てはくれるが、夫が泊まっていくことはめっきり少なくなった。

帰りしなに夫が言うことは決まっていた。
「女中を雇いなさい。一人で赤ん坊の世話をしていては参ってしまうぞ」
勿論それだけのお手当はもらっている。
「他人が入ってくるのは嫌なんですよ」
家の中のことなら母と自分とでやっていた。
女中をどこから見つけてくるのかも分からない。


相変わらず秀子の方に妊娠の気配はなかった。
長い付き合いのヤス子が漸く子を産んだのだから、若い秀子が焦る必要はないのかも知れない。
しかし、今や秀子には自らを繋ぎ止めるための鎹がどうしても必要なように思えた。

乳母を雇わず自分自身のお乳を与えて育てよう。
自分の手で抱いて、おしめを替えて、頬ずりをして、夫に愛されぬ辛さを忘れてしまおう。
子どもが二人できたら、私は「母」でのみあればいい。
夫がどんなに外の女を愛しても、この先何人の妾を持とうと、全ては男と女の問題なんだから嫡子の母には関係ない話なのだ。

そんなに恋愛したければ、勝手にするが良い。

………
ああ、嘘だ!
私は何という嘘吐きなんだろう。

私とて少女の恋を精算してないではないか。
だから、平気な顔してあの人に会うこともできない。
あの人からの手紙は封も切らず、捨てることもできず、とっておいてあるのではないか。

功喜が帰宅して一息ついた時、隣室の妻が起きているのに気が付いた。
切れ切れの泣き声も聞こえる。
「秀子、どうかしたのか?」
声をかけてみたが、返事はなく、尚も泣いている。

そこで、襖を開けて様子を見ることにした。
妻は布団の上に正座をしていた。

「おい」
近付いて背中を叩いた。
彼女は驚いて顔を上げた。
「ああ、あなた……おかえりなさいまし」
向きを変え、手を付いた。

「何かあったのか?」
「いいえ」
「母上が何かろくでもないことでも言ったのか?」
「いいえ。お嫁に来てから疎略に扱われたことはありません」
「問答をしているわけではないのだぞ」
「………」
「俺には言えないことか?」
「……あなたにお聞かせするつもりはありませんでした」

「由子が生まれるしばらく前から、ヤス子とは夫婦の営みが殆ど無くてな。
女は赤ん坊に夢中でいいかもしれんが、男にはどうも不都合だ。
妻を一人に限定せよ、という方が無理な注文というものではないか」

「あなたがそう仰るなら」

秀子は言い返した。
私は何というバカなことを言おうとしているのか、
きっと殴られる、それも手加減無しに……
と心が叫んでいたが、口が勝手に動いてしまった。

「女の一生で出産と育児は一時期の話です。あなたがその時期に不都合だというので女を交互に妻に為すというのなら、私とてそれ以外の時期にあなたの留守をしてくれる殿方を求める権利があるというものではありませんか」
「は……? 何を言うのか、おまえは……」
夫に言い返すべき言葉は見つからなかった。
彼は手をあげた。
彼女を打ち据えてしまうまで、彼は殴打し続けた。

夫は怒りのため、妻は痛みのために一睡もできなかった。
「おい」
「はい」
「傷むか?」
「はい。……あの……」
「何だ?」
「せっかく慰めようとしてくださったのに、生意気を申しました」

彼は起きあがって、隣室の妻を抱いて連れてきた。
白い肌についた痣が痛々しい。

「秀子、男のような物言いはするな」
夫は諭すように言った。
「女が嫉妬するのは仕方のないことだが、他の言いようもあるだろう。
それを権利だの何だのと理屈をこね回すから、ついおまえがか弱い女だということを忘れるのだ」

秀子は、何という頭の悪い理屈をつけるものだろうと呆れたが、これ以上殴られたくないので折れた。
「申し訳ございません」
彼女は目を伏せた。


平松永子や佐野節子によると、夫は外では「温厚な人柄」で通っているらしい。
時々、妾の子がすくすくと育っていることを両親に報告しているから、妾へも変わらぬ夫でいるのだろう。
無茶を言うこともなくなったので、父母も安心しているらしい。
誰に対してもごく冷静な態度だ。

それなのに、秀子に向かう時だけは全く別人になってしまうのだった。

彼女を何日も無視し続ける。
何に怒っているのか分からないが、激しく殴打する。
突然優しくなり、妻の傷の手当てをし、後悔している様子を見せる。
貪るように秀子を抱く。
かと思うと「俺を見捨てないでくれ」と秀子の外出さえ嫌う。
それから、妾の元へ行ったきり二日くらいは帰ってこない。

自分が何をされているのか、何をしているのか、秀子にはさっぱりわからない。


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