「職業婦人」


毎朝揃って家を出る。
燿が朝食の支度をする間、荘一朗が布団を上げたり簡単な掃除をしたりする。
女として、最初は何とも気分が落ち着かなかった。
いかに学生とはいえ、荘一朗がこの家の主人なのに。
ところが、彼は、吹聴しなければよい、合理性の方が大事だという。
そんなものかしら、と思ううちに慣れていった。

燿の職場のデパートまでは案外遠い。
東京は広いものだと思う。
ミシンを扱えるお陰で、和裁専門のお針子さん達より若干給金が高い。
といっても、燿は「ミシンを扱える」というだけで、洋裁ができるわけではない。
彼女が生来器用なので、秀子が面白がって実技の方は教えてくれたのだが、理論は無理だった。
基本的な教養が不足しすぎているのだと思う。


女の職場の昼食時は騒々しい。
「既婚?」
同僚達は新入りに自己紹介を求めたのだが、燿が結婚していることに驚いた。
一五歳で結婚できるとはいえ、二二,三歳の頃に結婚するのが普通だ。

「それで、どうして外で働くの?」
「主人はまだ学生なんです。卒業まで私が働くと決めました」

「それはまた甲斐性のない男だねえ」
「そんな! そんなことありません」
燿の真後ろで別の女が大笑いした。
「バカな女だね、新入りさん」
一同はぎょっとして、彼女の方を見た。
「ヒモを養おうって女はこんな割りの悪いところで働かないもんさ」
彼女はいきなり燿の顎を掴んだ。初対面の筈である。
「その顔なら買い手はいくらでも付くだろうよ。亭主は学生? 将来のエリート様です、ってかい?」

燿は相手の手を払いのけた。
肉体的な喧嘩なら大抵の女相手に負けるとは思えないが、口での喧嘩は苦手だ。
そこで、キッと睨みつけた。

「一目見て分かったよ。嫌な女だって」
「私、あなたに何かしました?」
「ふん」

初日から問題を起こすわけにも行かないが、気弱ないびりやすい女だと思われても困る。
目を逸らしてはいけない。

幸い相手が元の仲間の方を向いた。
燿も最初に話しかけてきた同僚の方に向き直った。

「それで納得いったよ。こんな別嬪さんがお針子だっていうのが。お腹が大きくなったら具合が悪いものね」
「うん」

うん、とは答えたものの、お腹の大きい売り子がいて何が悪い?と考えてしまった。
デパートのお客は、奥様やお嬢様や職業婦人や……つまり女が多いではないか。
男相手の接客に独身の娘というのは分かる気がするが、女相手では関係ないだろう。

そう考えて苦笑する。
夫の影響で、無教養な自分が「合理主義者」もどきになっている。
世の中、そういうものなのだ。
人妻の自分がお針子として雇われたのも、製糸屋の口利きのお陰なのだから。


初日から喧嘩になりかけたというので、理不尽なことに、燿の方が番頭に注意を受けた。
「ご心配をおかけしてすみませんでした」
口論でなく、番頭の手を煩わせたことだけを詫びた。

たとえば、三園商会のヨネなら初対面から憎まれることなど無いだろう。
燿だって、小学生の頃や最初の奉公先でならともかく、三嶋家や三園商会では誰とも衝突せず奉公ができた。
年齢を重ねれば、人間関係もうまく行くようになると、自信を持ったところだったのに。

ほとんどが独身女性である。
結婚している燿は関心を持たれた。

「燿ちゃんは私達が知らない男の人のことを知ってるのね」
ときわどい話を求められる。

確かに知っている。
まるで赤ん坊を抱くように、こわれ物を扱うように、そっと燿を抱く仕草も。
切なく彼女を呼ぶ声も。
西洋かぶれの「キス」も。
でも、それは秘めておきたい。

「さあ。主人のことしか知りません」
「それを聞きたい」
「男の人はきっとそれぞれ違います」
言い逃れるうちに真っ赤になってしまう。
相手も若い女性ゆえ、そのあたりで追求は終わるのだった。


理不尽に憎まれもしたが、友人もできた。
彼女がだんだん楽しそうに通うようになってきて、荘一朗も安心している様子だ。
勿論、彼の噂話のことは知らない。

デパートの定休日には秀子を訪ねることにした。
彼女は妊娠していたが、身体がまだ対応できていない状態で苦しんでいた。
最初に訪ねた時は、秀子は半ば気を病んでいた。
一人きりで家にいるためか、「飾られているばかりで、自分には何もできない」と言って泣いた。
燿はその日の家事を引き受け、栄養の付くものを作っていった。
気がふさいでも、話し相手もないのでは辛いだろう。

燿が毎週顔を見せることで、秀子も少しずつ気を落ち着けてきた。
ただ、相変わらず食が進まないという。
もともとほっそりとした人だったのに、ますます痩せてしまった。

ゆったりとしたワンピースでも作ってやりたいと切に思った。
燿も昨年あたりから胸が豊かになって、和服で具合が悪くなってきた。
他は細いままなのに、胸だけが乳呑み児でもいるような大きさになり、早々に妊娠したのかと思ったほどだ。
あるいは荘一朗が触りすぎるのが原因かも知れない。
きつく晒を巻いているが、職場でダーツを縫うたびに、和服にもこれがあればいいのに、と溜息が出る。
まして秀子は女学校時代に洋裁を学び、時々着ていたのだから、気楽な着用感を知っているはずだった。

秀子に提案してみると、喜んでくれた。
手持ちの和服を仕立て直したいという。
仮縫いまで自分でやるから、ミシンだけかけて欲しいと頼まれた。


お盆を過ぎた頃、淳之助が荘一朗を訪ねてきた。
兄が憔悴しているが、何があったのか訊きたいというのだった。
そこで、八重山に聞いた話だが、と前置きして説明した。

「憔悴するほど秀子さんに惚れたなら、大切にしてやれば良かったのに」
「さあ? 自分のものを弟に初めて取り上げられるかも知れないっていうんで、焦ってるんだろ?
滅多なことはできない筈さ。さて、僕も早く父上に承諾させねば」

男達の相談内容は燿にはどうしても馴染めぬものだったから、思い切って聞いた。
「あの……口を挟んでごめんなさい」
声はだんだん小さくなる。
「もし、ご承諾があったなら、秀子様と結婚なさるのですか?」
「はい。形の上でだけ。……燿ちゃんは僕が秀子様を抱くとでも思っていたんですか?
そんな可哀相なことはしませんよ。僕はどちらかというと可愛い燿ちゃんがいい……」
荘一朗が後ろから淳之助を叩いた。
「俺の女房を口説くな」


この夏米が大暴騰した。
富山に端を発した米騒動は、関西に飛び火し、東進を続けた。
八月半ばには豊浜町から程近い清原町でも、暴動が起きた。

三嶋家に奉公するまでそもそも白米を食べたことのない燿は、ごく自然に麦だの粟だのを目一杯混ぜた。
「燿は逞しいなあ。いい嫁さんに感謝せねば」
「貧乏には慣れてます。でも、こんなところで役に立つなんてねえ」
お嬢様育ちの秀子はさぞや苦労しているだろうと思い、伝授に出かけた。

秀子もいろいろ工夫を重ねていたらしい。
妊婦らしいお腹になり、ひっきりなしに胎動を感じるようになって、切羽詰まったものを感じるという。

それ以上に秀子には豊浜の実家が心配だった。
地主や米穀商でなくとも、富裕な家であれば襲撃に遭うという。
どうぞ、豊浜で米騒動が起きませんように、と祈るばかりだ。
すぐにも帰って、
「私は我が儘一杯に育ちましたけど、今は貧しい暮らしができるようになりました。
どうか、没落を恐れず、困窮民にありったけを出してしまってください。
命を取られ、家を燃やされては、元も子もございません」
と言いたかった。

八月半ばを頂点に米価も下がり始めたが、苦しいことに変わりがなかった。
秀子は近所の仕立物を引き受けていたが、生活が苦しくなれば第一に女服の支出を引き締めるだろう。
ミシンがあれば子供服を仕立てられるのに。

一方の燿も同様である。
耀にはどうにもならない事情が生じて、デパートを辞めざるを得なかった。
夏までは、ミシンを扱えるというだけで、米を買うのに不自由はなかった。
近所の仕立物を引き受けるだけでは、それに匹敵するだけの稼ぎは期待できない。

一〇月に入り、秀子もいよいよお腹が目立ってきた。
近所のおばさん達も気に掛けてくれるが、燿がやってきた日が嬉しかった。
「秀子様の御子だから、大切にされるんでしょうねえ」
燿はとろけそうな表情で、秀子のお腹を見やるのだった。

燿の生母の最後の子どもは、生後まもなく地主の家に引き取られた。
彼の養育と彼の一生が引き替えられたのだった。
小学校もろくに行かせてもらえないだろう。
生涯を地主の家の下男として過ごすより他は無いのだから。

手元にいる三人の子どもとて、必ずしも安全ではない。
宿主は三人にしばしば学校を休ませようとする。
春吉とサクが泣いて頼んで太助だけを学校にやり、学校が休みの日に太助がにわかの先生になるのだという。
太助の手紙にはっきり書いてはいないが、宿主の長男と太助が同じ年であるところから、太助の好成績は気に入らないらしい。
心配なのだが、燿にはどうしてやることもできない。
娘時代よりも麦束村が遠くなった気がする。


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