「男と素人女」


夏の終わり頃から店員の信夫がしつこく燿を誘うようになった。
彼の言い方はいちいち癇に障った。

「甲斐性のない亭主だなあ」
「いいじゃないか、どうせ生娘でもないんだから」

それを聞きとがめる男たちは誰もいなかった。
「主人は立派な人です。私は全部主人のものです。あなたなどとどこにも行きたくございません」
燿は悔し涙を流すのだが、
「その泣き顔が何とも可愛い」
と、肩に手を掛けてこようとするのだった。

女友達に庇ってもらおうというのは無理な話だった。
燿以外は大抵生娘なのだから、下手に口出しなどして花を散らす危険を冒したくないのだ。
「燿ちゃんは男を知っていて、しかも綺麗だから、あんな目に遭うのよ」
と囁かれていることを知っている。

頑なに拒み続けたので、信夫も嫌がらせに戦法を変えた。
仕立て上がった洋服を持ってくるなど、燿が売り場に現れることがある。
その時を狙って、信夫はいきなり燿を罵るのだった。
客たちの手前、燿は言葉を失った。
売子に品物だけを渡して、彼女は逃げ去るしかなかった。

「なあ、本郷さん、一度でいいんだよ。一度寝てくれたら諦めるからさ。生娘でもなし、減りゃしないだろ?」

一度我慢すればいいのなら、と心が動くことがある。
女友達も、男に二言はないというし、一度だけ相手をしてやれば諦めるのではないか、と言う。
仕事を辞めたくないのだ。
お針子の仕事が好きだと言うより、「実家」の養父や兄の顔を潰したくないからだ。
それに自分が働かないのなら、荘一朗が家庭教師以外の内職を捜さなければならない。
学生をやりながら親に仕送りする男の話を聞いたことはあるが、健康な自分がいるのだから夫の学問を妨げるものは極力排除したい。

鈍い荘一朗でもさすがに気が付いた。
燿が朝に憂鬱そうな表情を見せる。

それだけではない。

はじめて肌を重ねた時、荘一朗は燿にのしかかっていった。
最初のそれが気に入ったらしく、どのように抱いてみても、最後には仰向けに寝かせて欲しいとねだってきた。
町の女なら決して口にしないだろう。
野に生い育った女の率直さを荘一朗は好ましく思った。
町で育った自分の奥底に辛うじて残っている「野生の男」を、煽り立ててくれるものは燿しかいない。
その燿が、物憂げに、されるがままになっていては、夫である男が気付かぬはずはない。

特に落ち度があるとも見えない若い婦人を突然怒鳴りつける男の店員は、お客から「感じが悪い」と指摘された。
さすがに嫌がらせは止んだ。
もっとも、売り場から倉庫へ回されては、嫌がらせの仕様もなくなった。

ホッとしたのもつかの間、何人かの同僚が燿を「冷酷だ」と言い始めた。
熱烈に愛されれば少しは心を動かしてもいいはずだという。
独身の娘ならそれもあり得るかも知れないが、一七歳とはいえ燿は既婚の婦人である。
裏方の仕事なのに、デパートで既婚婦人が働くのは無理なのだろうかと悲しくなる。

「気にすること無いって。迷惑なものは迷惑なんだから」
女友達は慰めてくれるのだが、仕事の能率は明らかに下がっている。

信夫の周囲にも様々な人間がいる。
「人妻を口説くなどというバカなことをしていないで、縁談を頼めばいいじゃないか」
「御店の従業員に手出しをして見つかればクビだし、責任は取らねばならない。その点、人妻とは巧いことやりやがる。
万一妊娠しても、ご亭主の子だろうと言い逃れられるし、相手もそれに相違ないと言うだろうな。おまえは賢いよ」
「人妻に手を出せば姦通罪だぜ」
「娼家に行け、娼家に。素人相手に見苦しいことをするな」

仕事が終わって帰る時にはなぜか信夫がめざとく見つけて近寄ってくる。
彼に同情する人間が少なからずいるから、わざわざ教えるのかも知れない。

「こんなに好いているのに、冷たい女だなあ」
「妄りに好きだなんて言う人、信用できません」
「先に微笑みかけてきたのはそっちじゃないか」

覚えはない。
挨拶している時に微笑しているように見えでもしたのだろうか?
だとしたら、勝手な誤解ではないか。
信夫に何かを言い返すのもバカバカしい。
混ぜっ返すのは得意な男だ。
無視して小走りで駅へ向かった。

定休日でもないのに、燿が訪ねてきて、秀子が玄関を開けるなり泣き出した。
とりあえず家の中に入れて、お茶を出してやった。
お茶はすっかりさめてしまったが、ようやくそれに気付いた燿が手を伸ばしかけたので、
「どうかしたの?」
と聞いてやった。

燿は秀子を見つめた。
そうか、秀子になら話しても良いのだ、と気が付いた。

燿を既婚婦人と知っていながら口説き続ける男は口がうまく、いつのまにか「甲斐性のない夫に愛想を尽かした燿が誘いかけた」事になっている。
二、三の女友達の他は信夫の言うことを信じてしまい、信夫が腹立ち紛れに耀を罵った時も「自業自得」のように言われていた。

「燿ちゃんは口べたですものね」
「でも、辞めたくないんです」

理由は二つ。
秀子は頷いてくれた。
「実の父の顔に泥を塗っている私が言うのも変ですけど……
でも、お勤めを続けて燿ちゃんの名誉を守ることになるとは、とうてい思えないの。
ねえ、悪いことは言わない、ご主人に打ち明けなさい。
お勤めを辞めるように仰るかも知れない……。でもねえ、本郷さんは私の知る限り、誰よりも男の沽券に拘らない人よ。
………あら、おかえりなさい」

秀子が座礼をしたので、燿は振り返った。
松吾は苦笑して、
「俺は男の沽券に拘ってますか?」
と問うた。
秀子は答えずに微笑を返した。

「最初に燿ちゃんのお勤めに反対なすった理由は、女房に働かせてなるものかっていう男の見栄だけではないと思うわ。
世にも器用な燿ちゃんの職場がデパートの洋服の縫製部だって知って、許可なさったでしょ?
妻の能力を十分生かせる職場だと思ったからこそでしょうね。
でも、今は燿ちゃんが十分に能力を発揮できない状況にどんどん追い込まれていくのに、相手を罰する方法がないのよ。
……その信夫さんて人に、口でも腕力でも勝てるとは思えないし、もしそれができたとしても、同情はあちらに集まるのよね。
かといって、信夫さんの言う通り一度だけのつもりで、身を任せたりなんかしちゃ駄目よ。
殿方の一度きりというのは嘘です」

秀子はそこで一息吐き、むせかえる松吾を無視してもう一度繰り返した。

「いいこと? 殿方の一度きりでもと仰るのは、その場限りの方便なのです。約束なさっているわけではないわ。
……その信夫さんの場合ね、一度身を任せてしまうと何度でも要求してきますし、だんだん図々しくなりますよ。
そうなってから燿ちゃんが騒いでも、燿ちゃんの方も姦通罪に問われますからね。
燿ちゃんが泣き寝入りするはずだと思っているわよ」
秀子が燿の手に自分の手を重ねると、燿も頷き、
「主人に話します」
と決意したようだった。


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辞表は荘一朗が書いた。
お針子風情から立派な辞表が提出されたので、驚いた番頭があちこちに触れ回った。
最初に燿と衝突した娘は「何よ、お寺の娘だからって鼻に掛けて」と怒っていた。
彼女も寺の娘であり、同種の人間と誤解して燿に反発しているのだった。
他の娘たちにはどうでも良かった。

燿には被害者である自分の方が辞めなければならなくなったのには納得がいかない。

不思議なことに、信夫の方も納得がいかない様子だった。
「好き放題やっておいて、ハイ、サヨナラかよ?」

荘一朗からは挑発に乗るなと言われているので、じっと我慢して無視をする。
向こう臑を蹴飛ばしてやりたい。

最後の日は退出前に職場の人々に挨拶に回る。
挨拶の時は、荘一朗も家庭教師の仕事を断って、燿に付き添った。
特に「色白の美男子」ではないが、一九歳というのが信じられぬくらい落ち着いた声と雰囲気を持った荘一朗である。
どこから見ても「似合いの二人」だ。

「お世話になりました」

余分なことは一切言わず、別れを告げていく。
何も言ってくださらないのかしら、
燿は少々不満だった。

信夫に会うために倉庫の方へも回った。
「あの人です」
燿が小声で示した。
その時の荘一朗の射すくめるような厳しい視線に、燿ですら背筋が凍った。
何を言ったわけでもない、荘一朗は会釈をしたきりなのだが、彼の殺気を直接に感じた信夫はその場に強張ったままだった。

デパートを退出する時、女友達が花束を渡してくれた。
「遊びに行くからねー」
のんびりとした口調で別れの挨拶をした。それから
「こんなに素敵なご主人がいて、信夫さんなんかに目もくれないのは当然だよ、バッカみたいって噂してたんだよ」
と耳打ちした。

わずか半年の「職業婦人」であった。


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作者としては不本意なところです。

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