「天真爛漫」


正月二日、燿はとんでもない命令をされた。
「今すぐ本郷さんを呼んでらして」
「本郷様、ですか」
「ええ。この坂の下の工場の裏手が母屋よ。私からの使いだと言えばいいわ」
「………」
「早く行って。私、主席の座を別の方に渡すつもりはないの」

秀子は二日から通常通りに勉学にいそしんでいる。
稽古事もいくつかやっているのだが、女学校の成績もコーラス(唱歌)以外は主席を堅持しているらしい。

本郷の家は西洋風の門と玄関を備え、裏側の方は日本建築といった具合であった。
ただ、この家も窓が大きく、全部の窓にガラスがはまっている様子である。
呼び鈴を鳴らすと、この家の奥方が直接に出てきた。
どぎまぎしながら、三嶋秀子の使いであることを告げた。

「するとあなたが燿ちゃんですか」
奥方はじっと燿を見た。
「はい」
「親御さんのところには帰らなかったの? 小さいのに大変ねえ」
「いいえ。お嬢様にはとてもよくしていただいているので、何も苦労はありません」
「そう。荘一朗の言うとおり、あなたはしっかりした子なんだね。ここで待ってらっしゃいね。あの子もすぐ降りてきますから」

ここの工員よりもさらに貧しい家の出ということも伝わっているに違いないのに、奥方は大変気さくな雰囲気を崩していない。
荘一朗が自分のことをどう言っているのかは分からない。
だが、何かのついでではあっても、彼が自分などのことを家族に話したのだと知って、燿の頬が赤くなった。
そんなに気に掛けてもらえるほどの者ではないのに、畏れ多い、この感情を「嬉しい」と認めてもいいのだろうか?

和服の本郷荘一朗ははじめて見た。
いつもは学生服だったし、川の上では(燿にはまともに見ていられないのだが)シャツに短パン姿でハチマキを締めていた。
「三嶋さんの呼び出しなら行かねばなりますまい。それにしても、その着物、馬子にも衣装だね」
「お嬢様がくださったんです」
「やせっぽちの子どもにまた豪華な物を」
荘一朗が意地の悪いことを言い始めたが
「これ、荘!」
まだ玄関にいた本郷の奥方が息子の頭を後ろから叩いた。
「年頃の女の子に何てことをお言いだい。可愛い子じゃないか」
荘一朗は叩かれた頭を撫でながら下駄を突っかけた。

燿は小走りに坂を上っていった。
「怒っているのか?」
「怒ってなんかいません」
「だったら、女の子がそんなに走らなくてもいいじゃないか」
「お嬢様がお待ちです」
「そんな言い訳聞かない」
燿は驚いて足を止めた。
「どう言ったらいいんです?」
「燿ちゃん、目を閉じて」
そこで彼女は言うとおりにした。
「はい。……こうですか?」
「そう。口を開けてごらん」
唇を半ば開いたところで何かを押し込まれた。
甘い!
目を開けると、荘一朗が嬉しそうに笑っていた。
「キャラメルだよ」
「………」
「はじめて?」
燿は頷いた。
とにかく、とにかく甘い!
このように絡みつくような甘さは初めてだ。
「三嶋さんのところは子どもがいないからね。食べさせてやりたいと思ってたんだ」
「……ご親切な方なのか、意地悪な方なのか、よくわかりません」
「何? 僕が?」
「はい」
「両方だな。妹と同い年の子が大人に混じって働いているんだ、親切にしてやりたいと思うよ」
「ありがとうございます」
「かと思うと大人ぶるんだな、君は。生意気だ」
燿は両手で口元を覆った。
「……はい……すみません」
荘一朗に「生意気な女」という印象を与えていたとは思いも寄らぬことだった。
燿はポロポロと涙をこぼした。
キャラメルの甘みと涙の味が混ざって奇妙な味になった。
少女を泣かせてしまったので、荘一朗の方も慌てた。
「で、われら漕艇部がマドンナは何の御用ですか?」
「……よくわかりません。……英語?……を勉強してらしたんですが」
「ああ、わかりました」
話題を変えたのに、また泣かれてしまった。
「困った、困った。妹だってこんなに泣かせたことはないのに、何故そんなに悲しいのか聞かせてくれよ」
「わかりません。私、前から知っていましたのに。本当に教養のない、やせっぽちの田舎娘だって知っているんです。生意気だけは初めて知りましたけど。でも、身分違いの本郷様に何を恥じることがあるのでしょう? 恥じることすら畏れ多いと思います。だって、こんな娘でいたくないと思うからこそ恥ずかしいんですもの、思い上がりだわ」
「やめなさい、燿ちゃん。君の境遇を考えずに申し訳ないことを言った」
「本郷様?」
「燿ちゃんを傷つけていることに気が付かなかった。ごめん。許してくれ」
「そんな……いけません。本郷様が私に謝るなんて、そんなことがあってはなりません」
「君は自分をそんなに価値のない者として考えてはいけないんだ。君は三嶋さんの生徒なんだからね。彼女が嫁いでしまったら、君さえ良ければ、僕が先生になってやるから」
荘一朗の言うことはよく分からない、だが、燿は頷いていた。

高女と中学とでは英語の講義の時間数がまるきりちがうのだ。
燿は一階の応接室に荘一朗を案内し、下がろうとしたところを、女中頭に台所に連れて行かれた。
「お嬢様のところに行きなさい。万一、何かがあったら、おまえが自分自身を差し上げるんだよ」
「何か、って何でしょうか?」
「その場になれば、分かるんだよ、さあ、行きなさい」
「はい。……???」

お嬢様は勉学をなさっているので、お側にいたところで仕事はない、いいのかしら?と燿は不審に思った。
燿は勉学の邪魔にならないように、応接室の出入り口のところに控えていることにした。
幼い彼女は自分に命じられたことが分かっていないのだった。
もっとも、少し年長の秀子もそのあたりはまったく同様であると言えた。
また、荘一朗も純真であり、秀子が苦労している英文だけを見ていた。

「このままでは和訳はできませんね」
「やっぱり」
「,が二カ所足りません。先生が書き落とされたのでしょう」
「そう。確信できて良かったわ」
「確かめたかったのなら、先生に直接聞かれればいいのに」
「あなたのお宅の方が近いんですもの。せっかくいらしたんだから、もう少しお願いします。この英文を和訳してしまいますから、みてくださる?」
「お引き受けしましょう」

しばらくしたところで、廊下から茶菓が差し出された。
ちょうど一区切りした様子だったので、燿がお盆を受け取り、お嬢様とお客様にお出しした。
普通ならここで下がるのだが、女中頭に命じられている以上応接室から出ることはできない。
再び出入り口のところに退いていたが、秀子が立ち上がった。
「あなたが自分でいうことはできないでしょうから、私があなたの分を要求してきます」
「お嬢様?」
「だって、三人いるのよ」
そう言って台所に向かおうとする。
「とんでもございません、お嬢様。後生です、私が叱られます」
「私が命令すれば、あなたは叱られないわ」
「でも……」
燿がまたもや泣きそうになっているので、荘一朗が別の提案をした。
「燿ちゃん、内緒で分けよう。実は甘い物は苦手です」
「あら、本郷さんったら格好付けるのね」
秀子も燿が泣きそうなのでちょっと困っていた。
「それでいいわ。内緒にしましょう」

直接の主人である秀子ですら、麦飯とたくあんの切れっ端と残り物の菜という燿の食生活を知らない。
(それでも実家にいた頃よりは相当にマシなのだ。なにせ間違いなく三食食べている)
甘みを噛みしめている燿を見ていると、荘一朗はこの娘が哀れに思えてしまうのだった。

新年の会合から帰ってきた当主に、女中頭が報告した。
「お嬢様は殿方と二人きりでいて何が起こるかなどと言うことはまるきり分かっておられません。今回は小間使いの娘を念のために控えさせました。幸い何事もなかったのですが」

確かに秀子は家庭でも学校でも何も教えられていない。
当の娘流に言えば「知識の不足」とか「無知蒙昧」と言うことになろうが、そうしたことをあの賢い娘に教える気にはならなかった。
女としては知に走りすぎてはいるが、娘の行いはあくまでもしとやかであった。
「そろそろ嫁にやった方がよいのかも知れぬ」と父親は考えた。


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