初体験


幸い早朝だったから、誰にも見られなかった。
涼は戻ってくる姉と鉢合わせた。
「あいつは?」
姉がひとりなので涼は安心した。
「磯崎君なら帰ったよ」
「朝っぱらから手なんか繋ぐなよ、みっともない」
「そう? 家の近くでは止めとくね」
「そういうことじゃなくて」
あまりにものんびりした姉に涼は次第にイライラしてきた。
「あんなヤツ、みかねえには合わない」
どうして姉には分からないのだろう。
「合わない、って……どのへんが?」
「ヒョロヒョロしてて、みかねえを守れそうにないじゃないか」
家中で言ってることなのに、なぜ姉は耳を傾けようとしないのだろう。
「私を守る…って何から?」
そして弟に答えにくいことを聞くのだ。
「自分で考えろよ!」
「……ヘンな子ねえ」
姉は小さく笑った。

涼が姉を追いかけている間に、海野が着替え終わっていた。
彼は勝手知ったる台所でお茶を煎れていた。
「おねえさん、はやかったじゃないですか」
「うん。どうせ大学で会うから。…海野クンもちゃんと行きなさいよ」
「行きますよ。追試とレポートの嵐はもうたくさんです。
涼が中国文学好きで助かりました」
いつの間にか海野が「涼」と呼んでいる。
しかも、涼は元々中国文学が好きだったわけではない。

「それに学祭でライブやるし」
「へえー、すごいなあ」
「物理2年と一緒に『文理2年有志』として出場することになってます」
「聴きに行くよ。ね、涼?」
涼が口を開くより早く海野が答えた。
「ああ…、涼ならバンドメンバーと一緒にいますよ」

聞いてない。

海野に問いつめようとしたが、それも間に合わなかった。姉が話題を変えたのだ。
「それはそうと、海野クン、2食の秋の新メニュー食べた?」
「両方食べましたよー。1食もですが、2コマ目が終わる前に行かないと売り切れてますよ」
「両方? 2種類あるんだね」
「栗ご飯とキノコご飯」
「よし。半分ずつにしよう。今日こそ食べようって約束したんだ」
「その約束に来たんですか?」
「具体的にはね」
「ヤメロ! 恥ずかしい…」
涼はたまりかねて叫んだ。
「そんな軽薄なことはみかねえには似合わない」
ところが、2人とも人の話を聞いてない。
「涼は放っといて。おねえさん、抽象的には?」
「つきあおうって」
「OKしたんですね?」
「したよ」

そんな大事なことをどうしてこの姉は軽々しく承知したのだろう。
涼は倒れそうになっていた。
顔面蒼白になった涼の肩を、海野が優しく抱いた。


 


奇跡の逆転である。
兄に恋人ができた。

相変わらずジュモーの写真を眺めては溜息を吐くし、人形の服を縫う「至福の時間」を楽しんでいる。
だが、紗耶香は兄が夜こっそりメールを打っていることを知っている。
磯崎家では全面的に応援しているのに。
そこで、兄がソワソワして自室に引き上げたところで、紗耶香はそっと2階に上がり、勢いよくドアを開ける。
「お兄ちゃん、独和貸してー!」
誰もいない自室で、身体をかがめるようにしてメールチェックしていた兄は、10cmほど飛び上がり、慌てて閉めたノートパソコンに指を挟んだ。
「じっ…自分のを使いなさい!」
「訳が今一ピンと来ないのよね。お兄ちゃんの辞書にはどういう訳があるか見たいの」
兄はパソコンを睨んだまま独和を差し出した。
……お兄ちゃんのらぶらぶメールなんか見ませんよ。


学祭には伯母も紗耶香も毎年行っていた。
目当ては農学部である。
いつもは佑哉に荷物を持たせていたが、今年は別行動だ。
紗耶香はさっさとデートに決めてしまった。

「私が花とヨーグルトとジャムを担当するから、お兄ちゃんは野菜をお願い」
「わかった」
「佑哉の方は色気がないけど、相手が相手だから仕方ないね」
伯母は苦笑した。

「それはそうと、佑哉の方は進展があったの?」
「は?」
何を聞かれたかは分かるが、何を以て「進展した」と言っていいのか分からない。
美佳子に誘われて一緒に食事をしたし(学食だが)、仲間内でボーリングに行った時には「鬱陶しい、暑苦しい」と言われた。
何度か手を繋いだりもした。(毎回美佳子の方からだが)
「どう見ても、美佳子さんが主導権を持って、お兄ちゃんは嬉しそうに振り回されてるけど、……
相手が相手だけに、主導権を取り戻さないと色っぽい展開はないよ」
「………」
「中学生みたいで微笑ましいけどねー」
何かを言い淀んだ佑哉を見て伯母が苦笑した。
「キスくらいはお兄ちゃんからしなよね」
紗耶香がとどめを刺した。

キスは毎晩してるのだ。
ただし、夢の中で。
我ながら単純だとは思うが、あの日以来。

物理展の準備が終わった学部学生達に付き合って飲みに行った時だ。
「外見の中納、実用の磯崎――っスねー」
酔っぱらった彼らはそちら方面に話を進めた。
「佐山さんってあの足首っしょ。締まり良さそうだなあ」
佑哉は咽せこんだ。
既に目が据わっていた中納はまともに応戦した。
「あれは下腿三頭筋が発達してるから足首が細く見えるんだ」
「いいじゃないすか、筋肉! 大胸筋に支えられて、大きなオッパイも垂れない!
さわり心地いいでしょ、磯崎さん?」
知るわけがない。
「そうなんだ、磯崎?」
中納の矛先も佑哉に向かってきた。
……怖い。
「佐山さんはそんなにいいか?」
「いや、……その……」
「磯崎が勧めるなら、俺も筋肉を認めても良いぞ」
「だから……」
「何せアメリカ帰りだからな。大人しそうに見えても、やることはやってるだろう?」
やってません! とは言いづらくなってきた。
「あー、俺も聞きたい!
この前、体育の女子と盛り上がって、どうしたものか迷ってるんですよ。
磯崎さん、アメリカではどんな娘と付き合ってたんスか?」
……付き合ってない。
「もったいつけるな、磯崎」
そういうことじゃなくて……。
「アメリカ女と佐山さんとどっちが良かったんだ?」
「磯崎さん !! 」
どう迫られたところで、知らないものは知らない。
アメリカではパーティに同伴してくれる女の子を見つけられなかった。
今でも美佳子が誘ってくれるところについて行っているだけなのだ。
「磯崎さん、ホモ?」
高崎の一言になぜか一同が頷いた。
「そうか……、ホモだったのか。だからああいう女離れした女がいいんだな」
ちがーーーーーーーーう!


海野は紗耶香から厳命を受けていた。
「涼クンはお兄ちゃん達の邪魔になると思うの」
「俺もそう思う。あいつは甘ったれだから、おねえさんをとられてくやしいんだ。
俺は全面的に協力するつもりだよ」
「ホント? 嬉しい、心強いわ。
美佳子さんもお兄ちゃんも学問一筋できたから、ちょっとの邪魔が入っても照れちゃいそうで」
「任せてくれ。学祭中、何があっても涼は放さないから」

姉が佑哉と一緒に行くのを見れば、涼は必ずや邪魔しに行くだろう。
だから見せなければいいのだ。
バンドのメンバーと一緒にいさせればいいのである。


学祭当日は理学部棟の前で待ち合わせた。
海野は有志バンドの他のメンバーと合流し、涼を伴って早めに待ち合わせ場所を離れた。
佑哉は野菜、美佳子は果物とヨーグルトの買い物を頼まれたことが分かったので、2人で行こうと相談していた。
後ろで頷く紗耶香は仲人気分である。
行く先は同じだが、兄には
「くれぐれも私達の邪魔をしないでよ」
と言い渡し、数m離れて農学部棟へ向かった。

ところが。

「磯崎、佐山さん、おはよう」
そこへ中納が合流した。
「仲いいな。どこへ行く?」
「農学部」
「へえ、いいな。俺も行こうかな」

紗耶香はギョッとして振り返った。
この男は状況が見えていないのか?
ダメだよ、断って!
兄にブロックサインを送ってみたが、兄も美佳子さんも気が付いていない。
中納は何故か2人の間に割って入った。
入られた方もにこやかである。
どこまでも分かっていない。
3人共だ。
「もういい…。お兄ちゃんのばか…」



「伝説の男」ライブの打ち上げにまでも、涼は付き合わされた。

物理2年の面々はエネルギッシュな学生が揃っているのだそうだ。
海野が5科目の赤点をわずか1週間でクリアしたと聞き、今回のライブを企画し、当の海野をボーカルに誘った。
涼に対しても「あの佐山さんの弟だよね?」と好意的だ。
涼は最初ビールを飲んでいたが、途中から海野が甘いカクテルに替えてくれた。
バンドのメンバーも酔いが回ってきたようだ。

「1年の時、学科説明会があってさ。実験物理と言えば、セクハラで有名な教授がいたんだよ。
女子が今さら替えられないって泣いてたっけ。いなくなってラッキーだよな。
佐山さんてあの江島教授がいらした時に受験したんだよね? どんな人かと思ってたんだよ」
セクハラ教授がいたことなど聞いていない。
涼は顔色を変えた。
「今は大丈夫、いないから。それに佐山さんに迂闊に手を出す男なんかいないよ」
「そうか? 俺、あのおみ足に踏まれたい」
「みかねえなら踏むより蹴りだが……、一瞬呼吸が止まるぞ?」
「佐山さんより、磯崎さんに祟られそうで怖い」
確かに祟りそうな男だと涼は思った。

そろそろ次の店に移ろうという話がまとまった。
大学生達と立ち上がった涼はその場に転倒した。
……脚がいうことを聞かない。
「涼、どうした?」
海野が駆け寄ってきた。
「わからん」
「俺につかまれ」
「…ああ…」
不本意ながら海野の腕に縋って歩くつもりだった。
が、それもかなわない。
海野はタクシーを呼んで欲しいと言い、仲間達には先に帰ると告げた。
「わかった。海野くん、気を付けてな。佐山くん、お大事に」
タクシーを待つ2人にそれぞれ声を掛け、物理の学生達は移動していった。

タクシーが到着すると、海野は涼を抱き上げた。
脚ばかりでなく、指先まで痺れているのだから仕方がない。

「うちへ来いよ」
運転手に行く先を告げ、海野は涼に囁いた。
「今晩あたりおねえさんもデートだろう。…顔を合わせたくないんじゃないか?」
「みかねえはそんなことしない」
「涼、いい加減にしろ」
海野の口調が強くなった。
「おまえがいつまでもそんなじゃ、おねえさんが可哀相だ。
やっと掴んだ女の幸せじゃないか」
海野の言うことは理解できなかったが、涼は無抵抗でタクシーから抱き下ろされた。
体も頭も動かなかった。


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