初体験


涼は気が付いたら、海野のベッドの上にいた。
海野が向かい合って座っている。

「おねえさんはいずれ男と結婚する」
海野の言うことが妙に気に障った。
「いやだ」
ところが、海野も一歩も引かない。
「運命だ」
「どうして?」
「俺の占いは当たる」
「…占い?」
「占いサークルに入った」
ばかばかしい。
「おねえさんもごくあたりまえの女に戻れるんだ。おまえの世話さえなければな」
「…!」
「おねえさんはわりと綺麗だし、すごく頭が良くて、しかも強い。言い寄る男も多かったはずだ。
それなのに、すべて断って、今まで恋を封じてきたんだ。
おねえさんがなぜそんなことをしていたのか、わかるか?」
「みかねえに…? 男なんか知らない…」
「おまえのせいなんだよ」
「………?」
「おまえが進学も就職もしないで、いつまでもフラフラしてるから、おねえさんはおまえが心配で自分のことは後回しにしてるんだ。
おねえさんは一生おまえの面倒を見て過ごすつもりなんだ。
女としてこんなさみしい人生があるか? それでもいいのか?」

涼の瞳に涙が溢れた。
海野の言うことはよく分からないが、なんだか悲しくなってしまった。
姉は元から豪快で男らしかったのではなかったのか。
肩をそびやかして、周囲の白い目から弟を守るうちに、あのような女らしさに欠ける女になったのだろうか。

「でも…あの男には納得できない。あんなヤツにみかねえを守れるはずがない」
「おねえさんが男を守ってやればいいんだ」
「いやだ」
「今さら男に守られる女に戻れるもんか。惚れた男を守るのも女の幸せじゃないか」
「みかねえはあんな男に惚れない。
あいつに騙されてるんだ。
みかねえがうぶなのをいいことに、つけこみやがって」
「涼はバカだな」
海野は涼をギュッと抱きしめ、背中を撫でてやった。
「あの男もおねえさんに惚れてる。騙したりしてないさ」
「いやだ…」
「おねえさんに幸せになって欲しくないのか?」
「欲しい…けど…」
「だったらおまえがおねえさんと結婚するか?」
「まさか!」
「そうだ、涼。今のおねえさんに必要なのは弟じゃない。
おまえにはどうしようもできないんだよ」
「……いやだ! いやだあぁぁ! ああああ!」
姉のために何の力にもなれないのだと宣言され、涼は声を上げて泣いた。

海野に優しく撫でられ続けて、涼の泣き声もようやく落ち着いてきた。
「海野…俺はどうしたらいい?」
「邪魔にならないように、おねえさんから離れるんだ。
それが、せめてもの償いじゃないのか?」
「……つぐない…」
涼は海野の使った「つぐない」ということばを何度も繰り返した。
呟くうちに、どうしても姉に償いをしたいと思った。
いや、すぐに償うべきだ。

ぼんやりした涼を柔らかく押し倒しながら、海野は彼の唇を舌でなぞった。
「!」
「おねえさんだって今頃同じことをしてる。涼、おねえさんの気持ちになれ」
「……ん…んっ…」
言われるままに唇を半ば開いた。

息が詰まって、苦しい!

だから、苦しければ苦しいほど、痛ければ痛いほど、
姉への償いになると思った。


 


「土曜の夜なのに、恋人ができたのに、お店の手伝いをしてる若者なんてあんたぐらいのモノだよ……」
伯母は盛大に溜息を吐いた。
佑哉は生返事をしていたが、メールの着信音がした。
中納からの伝言を頼まれたという美佳子のメールだった。
物理展の後輩達に差し入れをしようというものだ。
「あーあー、相変わらず色気がないね」
後ろから伯母が伸び上がって携帯の画面を覗いた。
「たまにはついでじゃなくてデートしておいでよ」

口実なんかどうでもいい。
会いたい。
大学で会えることが分かっていても、毎日会いたい。
つい先日までは「よく飽きないものだ」と思っていたが、
今なら休日に同級生とデートしている奴の気持ちが分かる。
会いたい―と言えるものなら苦労はない。
だから、物理展には感謝だ。
佑哉がぼやっとしている間に、伯母が携帯を取り上げた。
「おまえの代わりに誘ってやったよ」
「え?」
伯母から携帯を取り返し、慌てて送信をチェックすると
――その後は2人きりで飲みに行こうよ
はないだろう、は。

と、今度は直接電話がかかってきた。
―せっかく誘ってくれたのに、ごめんね。私、夕方には弟を迎えに行かなくちゃならないの。
海野クンから連絡があったんだけど、今日のライブの打ち上げで、涼ったら弱いくせにガンガン飲んで潰れちゃったんだって。
今夜は海野クンのところに泊まらせてもらうんだけど、明日迎えに行くって言っちゃった。―
「だったら、俺が車を出すから!」
―いいの?―
「勿論、いいよ。一人で男を運んで、運転して帰ってくるなんて、大変じゃないか」
―ホントに…いつもありがとう―
「気にしなくていいから…」

通話が終わったところで、伯母に冷やかされた。
「佑哉ったら、ニヤニヤしちゃって」
「佐山さんは弟思いだなと思って。姉弟仲がいいのは良いことです」
「ふーん。まあ、バカな子ほど可愛いって言うしね」
「そうそう」
「あんた、本人にバカだの不肖の弟だのって言っちゃいけないよ。
思うだけにしときなさいよ」
「言いませんよ」

まあまあうまくいってるには違いないのだ。
よくもこう鈍い同士の相手が見つかったものだと感心する。
日曜日も、たまたま中納君が「差し入れ」を思いついたから良いようなものの、今日だってここで一緒にお茶を飲んでそのまま「さよなら」になるところだった。
(彼女の弟が友だちと飲みに行っているのに、この2人はいつまでもお茶なのだ。)
彼女が「また明日」と立ち上がった時、このだらしない甥っ子は「うん。また明日」なんぞと言ってたから、尻を叩いて送らせたのだ。
少しはそれらしい雰囲気になるかと思いきや、まっすぐ駅まで歩き、まっすぐ戻ってきた。
付き合いはじめて2週間。
未だに彼の方から彼女の手を握ったことすらない。
今どきの女の子なら「やる気あるの?」とぶち切れるかも知れない。
彼女の鈍さは「不幸にして」と言っていいのか、「幸いにして」と言っていいのか。


翌日、佑哉が張り切って出かけていくと、紗耶香と彼女のBF藤本辰也が尾行した。
「探偵みたいだね」
「違うわよ」

不肖弟は、幸いなことに酒で潰れ、海野が介抱しているらしい。
邪魔者は片付いたのだが、まだ油断はできない。
中納はじめ物理学科の連中がどんな邪魔をするか分からないからだ。
しかも邪魔している方もされている方も全く気が付いていない。

兄たちは差し入れをするとあちこちを見て歩き始めた。
まるきり中学生のようなノリだが、デートらしい感じもなくはない。
「いい雰囲気だね。さやちゃんが心配することないよ」
彼としては紗耶香の兄などどうでもいい、早く紗耶香本人とデートしたいのだ。
「でも、お兄ちゃんだから。あの2人、まだホントに清い関係なんだよ」
ほっといても纏まりそうだけどなあ、とぼやく辰也を後目に、紗耶香は尾行を続けた。

やがて兄たちは駐車場の方へ降りていった。
「さやちゃん。悪いよ。これじゃ、俺達が邪魔になりかねないから…」
「黙って」

2人は草地の斜面をどんどん下っていった。
舗装された道ではなく、最短距離を取るつもりらしい。
「美佳子さん、スカートなのに…。信じられない」
舗装された回り道を、2人で手を繋いでゆっくり下ればいいのに。
「彼女が何かに足を取られて、お兄さんが助け起こすとか……」
「残念でした。転ぶとしたらお兄ちゃんの方だから」


2人でゆっくり下ってくるつもりだったのに、美佳子が子どものように草地の斜面に足を踏み入れた。
佑哉も負けじと彼女に続き、駐車場に到着した時は2人ともすっかり童心に還っていた。
今なら、頬にキスしても許されるのではないか。――
佑哉は身をかがめ、彼女の頬に唇を近付けた。
「磯崎君、あの車――?」
と、ちょうど振り向いた彼女の唇を掠めた。

偶然だ。

偶然だが、
偶然ではない。

驚いて目を見開いた彼女に告げた。
「美佳子さん…、好きだ」
言った方も言われた方も、耳朶まで真っ赤に染めて見つめ合った。
それから、彼女は俯いてしまい、
「…私も、好き」
それだけ答えた。


「うん…。嬉しいなあ」
兄の声は妙に大きく高くなった。
「じゃ、いこっか」
しきりに後頭部に手をやり、それから一人でスタスタと車の方へ向かった。
美佳子が慌てて後を追った。

「……信じられない」
2人を見送って、紗耶香が呟いた。
「女の子がああいう態度を取るのって、“もう1度ちゃんとキスして”って意味じゃないよ。
何ぼけてんの、お兄ちゃん! バカ! ドンカン男!
トーフの角に頭ぶっつけて死んじまえーーー!」
「まあまあ、さやちゃん」
そうだったのか、と妙に感心した辰也が紗耶香を宥めた。
「謝らなかっただけ、マシじゃないか、と」

紗耶香は大きな目を見開いて彼を見つめ、溜息を吐いた。
「……そうだね、お兄ちゃんにしては進歩だね…」


 


何があったのか、思い出せない。

涼の記憶はバンドのメンバーと楽しく飲んでいたところで途切れている。
カクテルが甘くて美味しかった。
酒は苦手だと思っていたが、案外飲めるものだと思った…。

目覚めたところは海野のベッドの上だった。
自分は海野の家に泊まったらしい。
何故か酷く腹が痛む。
それ以上に、人には言えないところがズキズキする。
熱を持っているようだ。
そっと触れてみたら、腫れあがっていた。
二日酔いの頭痛はほとんど感じない。
腹と排泄口の痛みでそれどころではないのだ。

「涼。ウーロン茶、飲むだろう?」
海野がやってきて、涼を抱き起こした。
「ウッ!」
思わず呻いてしまう。
涼がウーロン茶を口に含んだところで、海野が囁いた。
「おねえさんが彼氏と迎えに来るそうだ」
「………」
「まだ動けないよな?」
「海野…俺は酔っぱらって喧嘩でもしたのか?」
「いや、してない。むしろ可愛かったよ」
「?」
「安心しろ。おまえをよその男に抱かせたりしないから。
俺が抱いて連れて行ってやるからな」
「……バカか。とりあえず、俺の服はどうした?
…ったく。ケチな男だな。俺のパジャマやパンツは無断で使うくせに」
「必要なかったから。……服はもう乾いたから取りに行ってくる」
洗濯して、干して、乾くだけの時間が経過したものらしい。

「おい。向こうを向け。見るな」
「身体の奥まで見せてくれたじゃないか。俺が着せてやるよ。
あ、その前に薬を塗ってやるから、俯せに寝ろよ」
そう言いながら海野がかざした薬を見て涼は絶句した。

俺は痔なのか?
海野がその薬を持っているところから考えて、海野は痔のベテランに違いない。

「よせ。自分でやる」
「無理だよ。それにおねえさんが来てしまう」
「それなら薬は要らない」
「いいから」
海野は手際よく涼の患部に薬を塗り込んでいった。
「ずっと涼のことを想ってた」
「………」
「可愛く反応してくれるんじゃないかと思ってたけど…想像よりずっと可愛かった」

まさか。海野は……。

考えたくなくて、ずっと胸の奥に封じ込めておいた疑問が噴き出した。

海野の目には俺が女に見えているのではないのか。
そして、昨晩、酒の勢いに任せて、想いを遂げた。
――そう考えてみれば、すべて辻褄が合う。

「貴様、俺に何をした?」
「涼が望んだことだ」
「ふざけるな!」

涼の拳が海野の顔面に炸裂した。
この体調ではあまり効いてないだろうが、卑劣な男には鉄拳制裁と決まっている。

「痛いなあ。俺の名を呼んでしがみついてきてくれたのに。
でも、いいよ。いくらおまえの望んだこととはいえ、痛い目に遭わせたことに代わりはないんだしさ」
顎をなでさすりながら、幸せそうににやける。
涼は身を竦ませた。
痛いのだ。痛みは現実なのだが。
自分の身に起こったことを信じたくない。


海野の手も、姉の彼氏面した男の手も借りたくなかった。
涼は姉におぶってくれと頼んだ。
男2人が驚き呆れたが、
「いいよ」
弟が捨てられた仔犬のような目をしている時は、厳しく扱わない方が良いことを、姉は知っていた。
「ほら、おぶさりなさい」
美佳子が背をかがめた。
「やっぱりみかねえは男らしい」
「黙れ。放り出すよ」
涼は後部座席に横になり、前に姉と磯崎佑哉が乗った。
海野は付き添うと主張したが、もう場所がなかった。


「佑哉クン…今日はありがとう。とっても助かった。それに……
嬉しかった」
別れ際の姉の声が妙に甘ったるい。
身を起こしてみると、磯崎も頬を染めて照れ笑いをしていた。
「車を出すくらいしかできなかったけど…いつでも頼って欲しい。
その……美佳子さんのためなら…」
「みかねえっ!」
涼は大声を出した。
「着いたんだよな?」
いつもの姉ならぶっ飛ばしているに違いない不遜な態度を取ってみた。
「あ…そうだね。…佑哉クン、またね」
「ああ…。また、明日」
姉は慌てて助手席を降り、後部ドアを開けた。

姉は弟が酷い二日酔いなのを知っているから、
だから、弟が偉そうにしても大目に見たのだ。

ずっと大きくなった涼が美佳子の背中にしがみついて帰ってきたので、両親は言葉を失った。
両親に構わず、美佳子はどんどん2階へ上がった。
重い子を一刻も早く降ろしたかったのだ。
涼をベッドに寝かせて、自室に引き上げようとした。

「みかねえ…」
「何?」
「あの男と…寝たのか?」
「えっ?」
姉はずっこけたようだ。
「バッカねー! 何言ってんの」
姉に嘘はなさそうだった。

「まだならいい。男なんか信用ならないものだからな」
そう言って、涼は目を閉じた。


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