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2006/7 某スーパーの戦略 現代人が昔を裁くのは 三角食べ指導反対 虫歯の悲劇 天晴れ、FIFA!

7月24日

天晴れ、FIFA!

ワールドカップ決勝戦、ジダンがマテラッツィの挑発に乗って頭突きをしてから半月が経つ。
FIFAは事件当事者双方に同質のペナルティを与えた。
これについて賛否両論が聞かれるのだが、私は全面賛成である。

写真週刊誌では、否定的見解を述べていた。
論拠の核はジダンへの人格攻撃である。
いわく、存外にキレやすい、頭突きだけでも3回目である、等だ。
これに、挑発・侮辱はよくある心理作戦であり、それに乗る方が愚かだという主張が添えられる。
ネットで見られる否定的見解もほぼ同様の主張をしていた。

これに対し、賛成派は「喧嘩両成敗」という表現を用いていた。

だが、この事件がFIFAの手に移った時に、論点もまた「どちらがどのくらい悪いのか」から「ピッチに於ける挑発・侮辱行為に対してFIFAはどのような見解を持っているのか」に移ったのではないかと思う。
現に、挑発・侮辱行為は当たり前に見られ、既成事実と化しているのだろう。
それを容認するのか、否か。
FIFAは「否」という結論を出した。
FIFAが守ったのは、ジダンやマテラッツィという個人の人格ではなく、サッカーというスポーツの品格である。

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7月18日

虫歯の悲劇

私は子どもの頃から虫歯と縁が切れたことがない。
きちんと歯を磨かなかったからである。

私が子どもだった頃、親たちには「乳歯はどうせ生え替わってしまうから虫歯になっても差し支えない」という意識があった。
実際、当時の子どものう歯罹患率は現在に比べてお話にならないほど高かった。
40〜45人学級で虫歯のない子はひとりか2人。
しかも、それは歯医者さんの子だった。

小学校の方は歯磨き指導に熱心だった。
講堂に集められ、「ローリング法」の講義を受けた覚えがある。
永久歯が出てくると、親も歯を磨くように熱心に言うようになった。
歯医者の治療も現在に比べて派手な音を立てて痛かったので、自分としては一所懸命に磨いたのである。

力一杯、
力一杯、
力一杯!
毎日歯磨きで出血していたものだ。

私の永久歯のエナメル質が非常に薄く、虫歯になりやすいのだと歯医者さんから聞いたのが、小学6年生のとき。
更に時を経て、子どもが生まれ、自身が親になって初めて聞いた。
歯磨きは歯ブラシを 軽く 当てて行うものなのだ、と。

今さらだが、無知は怖い。

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7月10日

三角食べ指導反対

「三角食べ」というのは、小学校の給食で「おかず→ご飯(パン)→牛乳」をローテーションで食べていく食べ方だそうだ。
私自身はそれを熱心に指導された覚えはない。
私は、おかずと主食を交互に食べ、最初か最後に牛乳という方式だった。
同級生達もおおむね同じ調子だったのではないだろうか。
私の子ども時代は早食いが推奨されていたので、早く呑み込めればそれで良かったんじゃないだろうか。
その後、早食いがあまり推奨されなくなって、代わって三角食べが指導されるようになったのではないかと思う。

三角食べ指導に反対する理由は、私には自然にそれができないからである。
たとえ牛乳をみそ汁かスープに替えてもらったとしても、そんなことはできない。
「おかず→ご飯→みそ汁」の順になることもあるだろうが、食事の大部分は「ご飯→みそ汁→ご飯→主菜→副菜→みそ汁→ご飯→副菜……」といった調子でランダムになる。
私は混合農業の植え付けの順番を考えているわけでもなければ、機械でもないのだ。
食べる順番なんぞに意識を集中するのはまっぴらゴメンだ、
料理の味と彩りと会話を目一杯楽しみたい。
食育の観点からいっても、栄養素だの食べる順番だのといった枝葉末節よりも、食事を楽しむことの方が重要だろうと思う。

日本独自の伝統だと言う人もいるのだが、残念ながらそれがいつの時代のどういう階層の伝統であったのか、私には分からない。
前近代の下層階級なら、おかずは塩、いいところ漬け物だったので、三角食べは成立しない。
上流階級なら皿数が多すぎて、懐石やコース料理に近そうだ。
考えられるのは中流階級だが、この階層がある程度の人口をもつようになったのは殖産興業以降だろう、
まさかその程度の歴史でしかなく圧倒的に少数派であった階層の慣習を以て「日本の伝統」と称することは考えられない。
そういうわけで、三角食べは日本の伝統だという主張が、私の知らない歴史について語っているのか、あるいは自分の体験を普遍として押しつけようとするよくある手合いなのか、区別が付かないのである。

勿論、自然に三角食べをしている人を差別する気はない。
要するに個人の好みの問題だ。
三角食べ絶対派も早食い派も食を楽しむ派も、押し付け合いという不毛な争いをせず、妥協を図っていけたらいいと思う。

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7月8日

現代人が昔を裁くのはやり過ぎだと思います

志賀島で発見された金印の大きさを「一辺2.347p」と覚えても意味がない、それは漢代の一寸である ―――
これは大学の教養部での日本史の講義の一部。
当たり前のことかも知れないが、とても感心した。
現代人の常識は昔には通用しないのだ。

実際には、過去の文化の単位の違いを受け入れることはできても、価値基準を受け入れることは難しい。

笠置シヅ子氏は「買い物ブギ」で「ツンボ」を躊躇なく歌っているが、当時その言葉は無邪気に使われていた。
しかし、現代では聴覚障害者を侮辱する差別語として、切って繋いで無かったことにしてしまった。

我が家には去年5月号の文藝春秋が置いてある。
「平成ホリエモン事件」という特集が組まれている。
その中で「光クラブ事件の山崎晃嗣」と堀江氏を比較した対談がある。
対談しているのは3人とも私より年上の男性で、山崎晃嗣氏のビジネスや人物像を論じている。

ただし、ひっかかったところが1箇所あった。
山崎氏が関わった女性がプロばかりで、普通のお嬢さんがいないという指摘が為されている。
当たり前ではないか。
普通のお嬢さんを結婚を前提としない恋愛に引っ張り込むなど、道徳的に許されることではなかったはずだ。
対談者自身が結婚した頃なら、恋愛結婚よりもお見合い結婚の方が格が高かった。
息子が恋愛結婚する時、親は戦災で資産を失ったことを自嘲気味に説明しただろう。
つまり「相手は性欲処理を有料でしてくれるプロの女性ばかりだった」という指摘は、山崎氏がお金のかからない素人女性を騙すほどの極悪人ではなかったことを意味している。
にもかかわらず、誰もツッコミを入れず、真逆の恋愛観を持つ現代人のための補足も入れていない。

19世紀末から20世紀前半にかけて、日本は東アジア地域に侵略戦争を繰り返した。
19世紀的枠組みでは、すべてのものに「優勝劣敗」の法則が働いていることになっている。
優勝の側である「列国」の一員にならなければ、何の権利もなかった。
よく知られているのが、「関税自主権がなく領事裁判権を認めた不平等条約」だが、金銭的なことばかりではない。
たとえば、コレラに罹患した乗組員が含まれていることが分かっているイギリス船が横浜港にやってくることが分かっていても、寄港や上陸を拒否することができなかった。
当時の工場では、女工がコレラに罹患したら、小屋ごと焼き殺してしまうこともあった。
当時の日本人にとっては無念だが、列国の振る舞いとしては自国の利潤が相手国の人命に優先するのが当然だったのである。
日本も中国も、産業革命を押し進め、速やかに植民地を獲得して、列国にいいように収奪される状況を脱しようとした。
もしも、日清戦争が清国勝利で終わっていたら、清国が生き延びて日本と同じことをしたはずだ。

これら一連の侵略戦争について、現代的価値観に照らして判断されることが多い。
一方では、現代的な価値観に基づいて、侵略そのものを糾弾する人々がいる。
もう一方では、現代的な価値観に基づいて、侵略ではなかったと言い張る人々がいる。

この侵略戦争はアメリカとの利害対立にも発展した。
戦争末期、アメリカは日本で核実験を行った。広島と長崎の住人が実験台となった。
有色人種を劣等と見なすのは当時の一般的な感覚である。
だが、核兵器の使用は戦争を早く集結させるために必要であったという、綺麗ごとの説明をする人々がいる。

当時はそうだった、というしかないではないか。
昔は問題がないと考えられ、現代では否定されている思想や行動があるものなのだ。
加害者であれば被害者の無念を思うことが必要であり、被害者であれば現代的な価値観を以て過去を糾弾しないことが有用だ。

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7月1日

某スーパーの戦略

よく行くスーパーである。
買い物客は精算を済ませると、台の上に籠を置き、持参又はスーパーでもらったビニール袋に買ったものを入れ換える。
そのスーパーには通常の高さの台の他に「らくらく台」と称する台がある。
高さはだいたい私の膝くらい、身長150cmの娘にも作業するには低い。
この台が名称通りに「楽々」であるのは、身長145cmくらいまでの人だろう。

小柄な人に配慮した台はあるが、長身の人には配慮しない ―――
最初はその姿勢が不愉快に思えた。
どういうわけか「平均より小さ(大き)い人がいれば同じくらいの人数の大き(小さ)い人がいると推定される」とは考えない業界があるのだ。
たとえば、靴売り場には平均的な足幅(EE)に匹敵するくらい平均より幅広(EEEやEEEE)の靴を置いてあるのに、平均より狭い足幅(A〜E)の靴は1足も見あたらない。
20代の頃はおしゃれ第一だったため無理をしていた。
しかしどんなに頑張っても、常に足指を曲げて、靴が脱げないように履くのは苦しい。
そして、ついに私は脱げる心配のないブーツやスニーカーしか履かなくなった。
靴ほど深刻ではないにせよ、同じ種類の怒りを覚えたのである。

が、よく考えると、そのスーパーは身長でサービスに差を付けているわけではない。
というのは、そこではレジ籠サイズの袋を持参すれば、レジを打ちながら袋詰めしてくれるというサービスがあるのだ。

戦争・戦後で苦労し「もの」を大切にする世代では、無料のスーパー袋をもらうことが多いだろう。
台に備え付けてあるビニール袋ですら余分に持っていく人もいるくらいだ。
「もしビニール袋を有料化すれば、客は小さな袋で済む買い物にも大きな袋を希望するだろう。だから有料化はかえって環境に悪い」という主張もこの年代ならでは。
そして、この年代で長身の人は、若い人にとってみればせいぜい平均的な身長に過ぎない。

一方、長身の人が多く含まれる若年層の価値観は逆である。
若い人は割高であってもゴミが出ない商品を選ぶ。(参照
ものは少なければ少ないほど、自由に使えるスペースが増えるのだから、決して余分なものは持っていかない。
スーパーで袋をもらってゴミに出すよりも、ミスタードーナツでもらった折り畳みショッピングバッグをバッグの中につっこんでおいた方が良いのである。

大変大雑把に纏めると、長身の人は従業員に袋詰めをさせている確率が高く、小柄な人はおおむね自分で袋詰めをしている、ということになる。
それなら、袋詰め作業をする台は、小柄な人への配慮がまずは必要だ。

1度は倒産したスーパーだけあって、さすがだと感心してしまった。

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