「彼女を盗らないで」


深谷も1人で研究テーマを持つようになり、1年が過ぎた。
同期の仲間は最初の3ヶ月で退職していった子達を除けば、全員が元気に勤めている。
19歳で結婚した子が2人いる。
1人は同じ部署の先輩社員と結婚した。
誰もが予想していたので、早めに彼女が配置転換となった。
もう1人は、噂されていたお相手ではなく、社外の男性と結婚した。
2人とも妊娠していた。

修士論文で忙しい頃の筈なのに、中野から結婚の知らせが来た。
そのはがきを受け取った時、何も知らされていなかったことにショックを受けた。

中野の家族でも恋人でもないのだが、自分は特別な存在だと信じていたのに。
男の名前に心当たりはなかった。
結婚披露宴は行わなかった、写真だけ撮ったという報告に少しは慰められた。

1週間悩んだ末、はがきに書かれた新しい電話番号を回した。
「中野……宮田さん、ですか……?」
「はい」
よく知っている中野の落ち着いた声がする。
「私、あの、深谷です」
「あー、深谷チャン? 嬉しいな。はがき、届いた?」
「あ、うん、先週。ご結婚、おめでとうございます」
「ありがと。元気?」
「元気。中野チャンは? 子どもは?」
まさか、妊娠して結婚せざるを得なかったのでは、と疑っていた深谷はカマを掛けてみた。
違っていたら、「まだ予定は立たないよねえ」と誤魔化すつもりだった。
「んー。元気。子どもも順調」
中野はのんびりした口調だった。
言い当てられたことに驚く様子もない。
「修士論文、大丈夫?」
「うん。幸い悪阻もないしね、ガンガン食べられるよー。といって、無節操に体重増加してるわけでもない。脅してくれた母には申し訳ないくらい、なーんだ、こんなものかってカンジだわ」
「私にはよく分からないけど……大事にしてよ」
「うん、ありがと。でもねー、深谷チャン、……ん、いいや、後で言うよ」
「何? 気持ち悪いなあ、言ってよ」
「いや。も少し整理がついてからにする」

とにかく、3月半ば頃までは忙しいだろう、と判断して、深谷はそれ以上追わなかったし、電話も止めておいた。
3月半ばまではとりあえず、中野を「宮田さん」と呼ばずに済む。

3月末、電話を掛けてみた。
深谷の勤める会社は土曜日が隔週の休日である、連休の週に会いたかった。
中野改め宮田美香はいつでもいいと答えてくれた。

マタニティドレスを着ていなければ妊婦とは分からない宮田美香が最寄り駅まで迎えに来てくれた。
「深谷チャンは変わらなくて安心する」
「中野チャン……宮田さんだって、妊娠しただけでしょうに」
「中野、でいいよ。宮田さん、っていわれるの慣れないんだ」
「そう? よかった、本当に呼び慣れなくて。あ、そうだ、博士課程移行、おめでとうございます」
「それなんだけど、すったもんだあってねえ。……旦那が修士なら良いけど、博士課程には行かないでくれって言い出して大変だった」
深谷は目を見開いた。言葉はすぐには出ない。
「冗談じゃない、私は行くよって言ったの。だって、経済的な問題じゃないんだよ。旦那が博士課程を諦めて就職したのだって私が頼んだ訳じゃないもん」
「そう……だよねえ。でも、中野チャンと赤ちゃんを養うためなんでしょ?」
「うん。でも、私はすぐには働けないんだから、ただぼーっと家にいるだけになるでしょ。専業主婦だって大学院生だって収入がないことに変わりはないじゃん」
中野は奨学金を学費に充てているのだから、理屈としてはそうなる。
「結婚してみて、本当に驚いた。苗字だってそう。私の修士論文は中野美香のものなんだけど、同一人物だって認識してくれるのは日本人くらいなんだよ」
「中野チャン、夫婦別姓、まだだから」
「せめてさー、中野宮田美香って名乗らせてもらえないかな」
「明治以来だからねえ。苗字変えるようになっちゃったの」
「そうなんだ? 江戸時代までは?」
「勿論そのまま。江戸時代なら旦那さんが中野チャンに手紙を書く時は『中野美香殿』になる」
「よく知ってるね」
「去年、ウグイス嬢やったから。年休の取得率が悪い女子新入社員は組合に強制的に駆り出された。その候補者がラディカルな夫婦別姓論者だったの。面白かったよ。さすがに政治家って話し方が上手でね、話も面白くてよく分かるの」
「深谷チャンの会社って面白そうだよね。もとの同級生なんかでも、お茶汲みとコピー取りの日々じゃ頭が悪くなるって嘆いてる子いたよ」
「ふっふっふ。そういう意味なら面白いかもね。お茶汲みは入って半年で無くなった。先月定年になった男性社員が廃止の提案したの。女から提案したなら駄目だったかも知れないけど、お茶汲みして貰ってる側からの提案だったからスンナリ。コピーはみんな自分でしてる。そっちは伝統みたい」
「頭が悪くならなくて良かったね」
「専門バカになりそう。新薬の共同開発するイタリアのメーカーからお客さんが来て案内したのね。その薬の担当者、私だから。で、お昼。お酢って言いたかったんだけど、咄嗟にアセティックアシッドっていってた」
「え?アセティックアシッドでいいんじゃない?」
「通じたよ。でも、正解はヴィネガー。でも、私だけじゃない。高卒の子だって、『濃いよー。このお茶、希釈しなきゃ』なんて言ってるんだよ」
「ふーん。正解は?」
「薄める、でいいんじゃない?」
「お湯を足す」
「ああ、そうかも」
話はどんどん転がっていく。
夕食の支度を手伝うと申し出て、2人で買い物に出かけた。


結婚がブームらしい。

梅雨明け間近の日、帰宅したら応接セットの置いてある場所に、弟が若い女性といた。
向き合った父は難しい顔をしている。
台所でお茶を煎れてる母も同様だ。
「それ、持ってくの?」
「あんたはいかなくていい」
「ああ、そう?」
「……ちょっと、久美子」
「何?」
「…………」
「お茶、冷めるよ」
「後でね」
母が言いにくいと思っていることを聞かされるわけだ。
深谷は夕食のおかずを温め直した。
母が決心を付けるまではどうしようもないので、夕食は食べておく。

夕食を一人で食べるのにも漸く慣れた。
深谷が、ではない。
父である。
実験が職務なのだから、思いの外時間がかかることがある。
大学でも同様だったはずだ。
ところが、父は娘が遅くなる度に文句を言うので、うんざりしていた。
「嫁入り前の娘をこんな遅くまで働かせて、ろくでもない会社だ」
「仕事にかこつけて、男と会ってるんじゃないのか」
大抵は放って置いた。
父の「常識」は現代では恐ろしくずれているが、自営業の父にはもう認識を改める必要はないと思われたからだ。
頑固親父とて生きていける。
だが、1ヶ月に1度くらいの割合で、深谷も爆発し、
「今どき、女だからいい加減にしか仕事はしませんなんて、馬鹿な言い草が通る会社なんかないんですよ!」
「私が一生懸命に仕事をしているというのに。不真面目社員みたいな言い方されて、凄く不愉快!」
等と言い返した。
最近漸く残業に文句を言わなくなった。

弟と彼女を送っていくと、母がやってきた。
「久美子、ちょっと」
いよいよか。
「良一、結婚するから。来月」
「ああ、そう。早いね。新郎妊婦?」
母が目を見開く。
「あんた……知ってたの?どうして何も言ってくれなかったの?」
「はい?」
「だって……知ってたでしょう?」
「何が?……あのねえ、お母さん。良一はまだ22、あの子はいくつ?」
「はたち」
「だったら、妊娠したに決まってるじゃない?25超えて『できちゃった結婚』は恥ずかしいけど、若い子なら普通だよ。私の同級生だって、妊娠もしてないのに結婚するの?って聞くよ。それにしても、良一、見直したなあ。中絶させればいいと思って、避妊具付けたがらない男なんていくらでもいるらしいよ。そいつらに比べれば、良一は偉いと思わない?」

弟が結婚するとなると、早めに家を出たい。
毎日毎日父に言われるのだろう。
「弟よりあとまで姉が嫁き遅れてみっともない。何でもいいから、バーゲンセールでもやって叩き売らねば片付かん」
既に憂鬱である。
もっとも、父とて娘が本気で弟に遅れて恥じたり不愉快に思っているならそこまで言い立てまい、と信じたい。
深谷は結婚する気がないのだから仕方がない。

これから憂鬱な時期だと思う。
早く年齢を重ねたい。
それでなくても、まだ25歳というなら、色気最優先と決めてかかられる。
更に若く見られたいという仲間の気が知れない。
誰も恋愛だの結婚だのと言い立てなくなる年齢に早く達したい。
今どきなら30を少々越えた程度では「なぜ結婚しないのですか?」と聞かれてしまう。
35を越えなければ「なぜ結婚しなかったんですか?」にならない。

そもそもTVがいけないのだと思う。
「女は常に恋をしてなければならない」というメッセージを送ってくれる。

出会いもあれば、別れもあるではないか。
別れたら、次の人か?

自然界の動物は争いに負けたら、しばらくは元気がない。
元気が無くなることによって、エネルギーを温存し、次のチャンスを待つ。
それが、ひっきりなしに争っていたら、ここぞという時に力が出るはずがない。
人間界だって同じだ。
「英雄色を好む」という。
色を好むのは、恋愛だからじゃない。
相手が異性でさえあれば誰だって良いのだから、色を好むのだ。
精神性の問題ではなく、単なる性行為なのだから。
それで良しとするのは、恋愛以上に面白いことがあるからだ。
それを男達は知っている。
知っていながら、「女は恋」の枠に填めようとする。
女には恋愛以上の面白いことを禁じて、競争者を減らす魂胆なのか、
はたまた女を常に性的に活性にしておくことによって、社会の安全を確保しようと言うのか。
どちらにしても男が「女は常に恋をしていなくちゃ」などと言うのは胡散臭い。

深谷も好きな男の子の一人くらいいなかったわけではない。
片思いばかりだが。
ただ、いずれの場合も、深谷が落ち込んでいる時、うまく行かない時、ばかりだった。
要するに片思いをしていると自分や他人に見せかけておいて、ちゃっかり彼らを現実逃避の道具に使ったに過ぎない。


弟が次に斉藤絵里香を連れてきた時には、深谷も彼女に会った。

何て小さな女性だろう。

弟は180cm程だが、彼女は150cm未満であろう。
フィギュアスケートのペアを連想した。
「でかい」女のひがみだという自覚はあるが、ヨーロッパのペアは男女の体格差が大きすぎて、若い父親と童女の組み合わせにしか見えない。
どういう演技をされても、色気を感じろという方が無理だ。
中国のペアがギリギリ許容範囲といったところだと思う。

「久美子さんって大きいんですね」
斉藤絵里香の第一声である。

弟の妻になるのなら、まだ顔を合わせねばならない時が何度もあるのだ。
せめて、先に「こんばんは」と言って欲しかった。

ついでに言うならば、両親が付けた名前なれど、あまりに似つかわしくない、いかにも「オンナッ!」と主張しているようなこの名前は苦手なのだ。
できるだけ呼ばれたくない。
親なら、仕方ない、我慢しているが、他の人には進んで呼んで欲しくない。
「こんばんは」
言われたことは無視して、まず挨拶をした。

斉藤絵里香を送って帰ってきた弟が文句を言いに来た。
「嫁かず後家にとっちゃ面白くないってのは分かるけど、初対面の彼女を苛めて何が楽しいんだよ?」
「他人の身体的欠陥を云々する前に挨拶でしょうが」
深谷も怒っているのだが、弟の怒りの方が激しい。
彼は姉の主張を見事に無視した。

慌ただしく執り行われた結婚披露宴だったが、絵里香は美しかった。
小柄な方に目がいってしまい、顔の美しさの方は初めて気が付いた。
冷静になって考えれば、あれほど怒る必要はなかったと思う。
小柄な絵里香は挨拶を忘れるほど義姉に威圧感を感じたのだろう。


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