「12・闇の恋」


そのようなものなのだろうか。
傷付き、疲れ果てた龍や摂津とは対照的に、五郎はまめまめしく働いている。
「鬼の力を(一時的にせよ)失っているなら、人間のように生きれば良い」
と彼は言うのだ。ツルツル頭を軽く叩いて、
「この方が寺には相応しいっスよ」
と微笑する。
風綬にとっては心強い。
同じ「人間」である威尊親王や淳良よりも、鬼である五郎の方が親しみやすく感じることさえあるのだ。

龍が眠りに入った日の夜、摂津の方から激しく親王を求めた。
通力が欲しいのだと分かってはいた。
だが、もう少し夢を見たかった。

龍が「大怪初号の素」を百済から引きはがし、破壊するまで、摂津には何もできなかった。
それから、龍と百済を落下の衝撃から救った。
さもなければ、龍は小蛇どころか、物言わぬ火と水に還っていただろう。
(それでも、川が流れ、風が吹き、人々に自然を畏怖する心があれば、龍が死ぬことはないのだという。)
摂津は怖かったに違いない。
人間には関わることのできない戦いだから、やむなく戦ったのだ。
今になって、自分を護る腕に身を委ねていたいのだろう。

一方の五郎は風綬を眺めていた。
美味しそうだ。
うっかり舌なめずりしそうになる。
龍が眠っている今なら、と思った。

今まで、風綬は安全だった。
普段は摂津の結界の中にいる。
何より、龍がいるのだから、畿内の神霊は皆遠慮していた。
もし、龍の「冬眠」が知れてしまったら?
摂津の結界を1歩出た途端、百済ばかりでなく、数百数千の神霊や鬼、死霊や物の怪がこの極上の餌にどっと押し寄せ、もみくちゃにされるに違いない。
本人は全く自覚がないだけに、何も考えずに結界の外に出ていきそうだ。

いや、いけない―――。
五郎は自分の頬をピシャピシャッと叩いた。
風綬の瞳を見るが良い。
鬼と分かっている俺にこんなに信頼を寄せているではないか。


4日目の正午頃、小蛇の龍がピクリと動いた。
摂津が歓声を上げたので、威尊親王は後ろから覗き込んだ。
まるで、下人共が面白そうに語る伝承のようだ。
小蛇の子どもを授かった、という話がなかっただろうか?

「龍……、龍……」
涙を流して喜ぶ摂津を見ていると胸が痛む。
親王にお構いなしに、摂津は龍に頬を寄せた。

「摂津? 俺はどのくらい眠っていた?」
「4日。たった4日だ」
「おまえがいるからびっくりしたが、まだ4日なのか。おまえの術には恐れ入った」
「さもあらん」
「風綬に龍珠を預けてある。だから、あいつが生きてるうちにと思っていたんだ」
摂津は微かに眉を顰めた。
「我に預けておけば良いではないか。100年でも200年でも預かってやるから」
「そう…なんだが。そこは、ホラ、人間の寿命のうちにしとかないと頑張れないかなーと思って」
「それより……お腹、減ったのではないか? その姿だと……どっちがいい?」
「ふむ……」

急に摂津の肩が掴まれ、ぐいっと起こされた。
「やめろ」
親王が口を挟んだのだ。
「何?」
「そこまでだ、摂津」
親王は龍の尻尾を掴んだ。
「イテテテッ!」
龍が騒いだが、構わず綵に包み直した。
「親王様! 龍はひもじいのです」
龍を掴んだまま、親王は摂津を睨みつけた。
「人間の気持ちを考えろ。龍と違って、そなたはもともと人間だったのだろう?」
摂津は負けずに睨み返した。
「仰る意味が分かりません」
「こいつの相棒に返してやれと申した。とぼけるな」
「相棒が風綬だなんて、誰が決めたのです?」
「分かってるじゃないか」
「………」

摂津が俯いたので、親王は龍を持ったまま回廊に出た。摂津は慌てて親王を追いかけた。
「待って! お待ちくださいませ、親王様。龍の手当を……」
親王は振り返らない。無表情だ。
「風綬にやらせろ」
「ダメ」
摂津は親王の前に回り込んだ。
「風綬がやっても、2月も3月もかかる。我なら7日で直してやれるから……」
「2月だろうが、3月だろうが、かけさせれば良い。どけ」
親王は軽く押しただけだったが、押された摂津はその場にへたり込んだ。

蓬髪の五郎に慰められて、摂津は涙を流し続けていた。
「龍が好きなのですか」
五郎が唐突に呟いた。
摂津はハッと目を見開いた。
呆気にとられた五郎の頬を平手で打つ。
「ああ、好きだ。でも今さらそんな望みは持たない。人間の心を思い出すつもりもない」


祠に寝かされていた百済は、とてつもない不味さで目が覚めた。
体中に激痛が走る。
目を上げると、人懐こい笑みを浮かべた淳良がいた。
「……おはよう…」
「ん? あっ、おはよう、百済! もうすぐ夜だけどね。これ、地祇・死霊用の薬。1日1回飲むんだよ」
「……くすり…?」
「うん。小埜君に作ってもらった。原材料は俺の通力で。神霊・鬼用はそのまま、地祇・死霊用が10倍に薄めてあるんだそうだ」
道理で不味いはずだ、と百済は呟いた。
「何か、言ったか?」
「いや、なんでもない」
しかし、鬼用はこの10倍不味いということだ。
やはり、鬼になるのも考え物だ、とますます悩みが深くなる百済であった。

淳良は神霊・鬼用を持って、風綬の房を訪ねた。
風綬は龍の口をこじ開けて薬を放り込み、ジタバタする彼を押さえつけた。
「口直しッ! 口直しーッ!」
「水か?」
「違う! 風綬、指でも出せッ!」
淳良の前だが、おしゃぶりよろしくくわえさせてやった。
「赤ん坊みたいだ!」
淳良はそれを指さして大笑いした。
「俺は乳母か?」
そういう風綬の声は本当に乳母のように優しかった。


龍や百済が元気を取り戻すと共に、淳良も元気を取り戻した。
「今晩は優衣君と名月を見て過ごす。五郎にお伴を頼みたい」
淳良は萩の花を持って上機嫌だ。
あまりに幸せそうなので、親王が脅す。
「何だ、そちら、まだおハナシだけか? ぐずぐずしていると、脇からさらわれてしまうぞ」
何を言われてもどこ吹く風。

馬上から祠に向かって声を掛ける。
「百済、きょうは名月を見て過ごすんだ。優衣君が心配なら、おまえもお伴してくる?」
百済は青筋を立てて怒った。口惜しいが、百済邸は鬼が何とか近付けるという位置だ。
「今に見てろ」
百済の罵声を背中で聞き流しながら、淳良は優衣君の許へ出かけていった。


優衣君が御簾のすぐ近くにいることは分かっている。最初は「慎みがない」と怒っていた尼君も、
「相手が芝殿ならね……」
と渋く笑っている。
「お久しぶりですね」
女の言葉としては恨み言の類になるだろう。
それが、優衣君が言うと、友人を気遣う言葉にしか聞こえない。
だから、うっかり口を滑らせた。
「怪我人が出て、大変でした」
優衣君が息を呑んだ。「しまった」と思った時には遅かった。
「まさか、兄……」
「もう元気。大丈夫です!」
嘘ではない。
「教えてくだされば良かったのに」
教えたところで、昼間には出てこられない死霊なのだが、
「すみません」
謝るしかない。
「訪ねても良いですか?」
「訪ねるって、だれ……誰が、ですか?」
「私が。いずれ、ご挨拶に伺うつもりでいたんです」
「でも……そんな…掌蔵ともあろうお方がそんな軽はずみなことをしてはいけません」
淳良と尼君とで止めたが、優衣君の決意は固かった。
そこで、淳良が送迎をすることにした。


口裏を全員で合わせる。
優衣君がやってくる日中に百済が出てくることはできない。
そこで、親王の思いつきで使いに出したことにする。
夕刻、摂津が一時的に結界を解除し、兄妹を対面させる。
兄は右京の途中まで妹を送っていき、その間に結界を張り直す。

計画は完璧であった。
父院の女御の一人に仕えていたという尼君が懐かしがって、威尊親王が相手に疲れたという以外は。
時間繋ぎに、摂津に命じて舞わせた。
尼君も優衣君も大変に感心した様子である。
「まあ。こんなことなら徒歩などで来ないで、十三弦を持ってくれば良かったねえ」
尼君の口惜しがることしきりである。
計画通り兄妹を会わせた。
「良かった……。兄様のこと、聞いてはいたけれど、本当に召し抱えていただけたのか、心配で、心配で……。私の取り越し苦労でした」
優衣君が涙ぐんだ。
「良かった、良かった。これならいつでもお婿に行けるよ」
「そうね。本当にそうね」
伯母と妹の喜びようを、百済は複雑な表情で聞いていた。


百済の婿入り先、という考えに、淳良はすっかりとりつかれてしまった。
「死霊の妻はやっぱり死霊?」
淳良に相談されて、摂津も困ったようだ。
「そうだねえ……。でも、女の死霊は少ない」
「どうして?」
「成仏するなら、する。鬼になるなら、なる。はっきり決めてしまうからね。思い悩んでどっちつかずであったり、現世に執着が強かったりというのは、やっぱり男の方が多い」
「そうか。出会いそのものが大変なのか」
淳良は何かを思いついたらしい。
摂津にはそれが何かを聞くのは怖かった。

頼りになるのは、小埜君である。
同様に、小埜君の方も淳良を頼りにしている。

彼女が実験すると、いつも失敗するので、効力を強く、強く、と開発してきた。
ところが、淳良は実験を成功させる。
「大怪初号の素」は失敗に終わったらしいが、小埜君の時とは逆、増幅効果が強すぎるのだという。

「武蔵国にも石山寺の辺りにもいなかったけれど、左京の方も人外の者や怪はいないのかしらね。右京は多いのですか?」
「さて? 『大怪初号の素』の時は、そういえば、朱雀大路を過ぎたあたりから、物の怪や気なんかがつき始めました。でも、ちょっと前までは左京にも雑魚のようなものが結構いたようですよ」
「引っ越したのかしら、失礼ね」
「1度死に絶えたって言ってました」
「まあ。目に見えない天変地異が起こっていたのですね。怖いこと。……で、私のところに来たということはまた何か頼み事でしょう? 今度はどんなことです?」
「お見通しですね」
「いいのよ。私も楽しいわ。それに、あなたは本当に実験上手」

淳良は百済の婿入り先の相談をした。小埜君は
「それならちょうど良い物があります」
と嬉しそうだ。
彼女が出してきたのは「死霊ホイホイ初号(改良型)」だった。

「あなたのお話を素に引力を弱めてみたの。これならつまらぬ気や怪は入らぬはず。詰め込まれてぎゅうぎゅうにすることもありません。女の死霊なら聞いたことがあります。藤原に男を恨んで死んだまま、彷徨っている女がいるそうですよ」
「新しい恋に乗ってくるでしょうか?」
「さあ」
恋について小埜君に聞いても虚しいので、淳良はそこで辞して、浅倉殿に帰った。


古京から下ツ道か中ツ道を下ったところに、藤原の地はある。

俄然興味を示してきた親王が「俺も行く」と言い出し、摂津にも伴を命じた。

気晴らしになる。親王も先日摂津をきつく叱ったことを気に病んでいた。
今は鬼とはいえ、もとは人の霊だった者であるし、人の心を失った鬼にも見えなかった。

五郎は真っ青になった。
摂津は長い睫を伏せた。
「承知しました。お伴します」
摂津の明るい声とは対照的に、五郎は顔を酷く歪めた。
「五郎は残してやっていいでしょうか?」
「それはかまわぬが、いいのか?」
五郎が何か言う前に摂津は「無理すること、ないよ」と囁いた。

結局、五郎一人で留守を守ることになった。
五郎は百済の祠に食料を運びながら、いくつかのことを教えてやった。
「鬼になると思ってもみないことが起きるものだ。以前我々を呼びだした男が受領でね、御前は自分の陵の前で過ごした」
「藤原京で俺は若い男を殺した。それから200年、俺は御前までをも巻き添えにして彷徨っているのだ」

紅葉と文

舟旅は楽しかった。
龍が「揺らすな」と命じ、川の諸々の生物や水の流れも彼の命令に従っていたから、あり得ぬ穏やかさであった。
秋も終わろうというのに、龍は着ていたものをパッパと脱ぎ捨て、水の中に飛び込んだ。
「無邪気だなあ、龍は。ねえ、五郎……」

泉川(木津川)に入り、夕刻に寺に泊まることにした。
龍が泉の龍に断って来るというので、摂津が人間達の護衛を引き受けた。

泉の龍は龍の気配をとうに感じていたらしい、すぐに出てきた。
「大層立派に成られて」
泉の龍がひれ伏した。龍は照れくさそうにしている。
「人間との付き合いでは庶人に変装してるんだ。何となく気恥ずかしいな」
「気に入った人間がおられましたかな?」
「まあね。あ、でも、男なのだが……」
「霊に男女はございませんでしょうに。神の妻になる者はあの舟におりましたか?」
「いや……、俺にはそうする気はないんだ。人間を連れて行くのは可哀相だ」
「お変わりにならない」
泉の老神は苦笑した。
「ま、その話はおいといて。2つ聞きたいことがあるんだ」
「ほう」
「1つは藤原の女の死霊なのだが。本当にいるのか?」
「初瀬川の龍からも聞いてます。おりますが……。あれは、太子様にはちょっと……」
「いるんだったらいい。本人同士に決めさせればいいんだ。で、もう1つはあの舟に乗ってた白拍子」
「ほほう」
「そうではない! さっきも言っただろう? 俺は人間には、霊でも生身でも、そんなことをする気はない。聞きたいのは、あいつに覚えがあるかなんだ」
「ございますよ」
「誰?」
「斎宮にございます」
「………! 内親王がなぜ鬼になんか……」
摂津に感じた懐かしさは思い過ごしなどではなかった。
どこかで会ったはずだ。
「彼が手の者が日下部皇子、そして文武天皇を取り殺しましてな」
「同母弟の謀反の咎を以て斎宮の任を解かれた……皇女であったか……」

寺に合流した龍に、淳良が助けを求めてきた。
「みんながこいつを寺においてけっていうんだよ。何とか言ってよ」
「こいつ?」
「この子」
淳良が差しだして見せたのは、犬枕だった。
「なぜこんなものを連れてきたんだ?」
犬枕は龍に鼻面?を押しつけてきた。
舌があれば顔を舐め回したに違いない。
「だって、犬なんだよ? 鼻が利く」
「枕だろうがっ!」
「でも、犬っ!」
龍は、他の者達の顔に疲労の表情が浮かんでいるのを見て、納得した。

結局、犬枕連れで旅を続けることになった。
佐保川の龍、初瀬川の龍の力添えで、大変に安全で快適な旅である。
中ツ道を通って藤原京跡を訪ね、犬枕に探させて、死霊を拾って帰った。
女を連れ帰るというのも奇妙な話だが、唐の国では結婚が成立すると女の方が男の家にやってくると言うから、舶来風でよろしいかも知れない。


祠の前で「死霊ホイホイ初号(改良型)」を逆さにしてやると、何本かの巻物が出てきた。
「人間は見てはならないそうだ。だから、俺達が帰ってから、百済一人で見ておくれ。どれかが、好いて好かれた仲だった筈の男に捨てられて川に身を投げ、恨みのあまり男の家の周囲を何年も徘徊していたお嬢さんの霊だよ」
「絵巻になっているのか」
「うん。何せ(改良型)だからね」

優衣君だけが心配で、自分が婿にいけないのは構わないはずなのだが。
百済はブツブツ言いながらも、何度か巻物を「死霊ホイホイ初号(改良型)」に戻そうとしてやめた。
「見るだけなら……」

全てを開いた。

淳良の言うとおり、6枚中5枚は明らかに男だ。
だが、女も、どう見ても絵に描いたような鬼女。
または伝説の鬼婆である。
シワの深い顔、乱れた髪。
目は見開かれ、口は耳近くまで裂け、開いた襟もとから覗く首筋からは骨が浮いて見える。
「こ、これは……」
巻物からは怪しい霊気と怨念がじわりじわりと湧いて出ている。

……霊気が冷たい……。寒い……。
なのに、膝頭を抑える手の平には汗が……。
百済は先程から床を見詰めて動けないでいた。
おそるおそる、絵に目を当ててみると
「目っ……目っ……! うっ……うっ?……」
動いたっ! 目がっ! 目がこっち向いたっ!

女はすっと巻物から抜け出した。
「愛しの我が君」
百済は後退った。
「さ、さ、契を交わしましょう」
死霊だからか、女は妙に積極的である。

百済は頭を振った。
必死で頭を振り続けた。
いつの間にか、男の死霊達も巻物から抜け出し、
「霊に男も女もありませんぞ。我が君……」
などと囁きながら近付いてきた。


その夜、百済の悲鳴が響き続けた。


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