かつてこれほどの高みに昇ったことはない。
龍は護摩を焚く煙に乗って、上昇していった。
一体、自分はどこまで行けるのか。無性に試してみたくなった。
きっかけを与える上昇気流は、今やどんなに小さくても構わない。


「17・愛しい人へ(前編)」


目を凝らすと、綺麗な半球形の結界の輪郭が見えた。
鬼の作り出した結界に、風綬は随分守られた。
いや、龍でさえ、あの結界を頼りにした。

小さく、か弱く、見える。
あれが摂津の本質だ、と思う。
摂津自身の力はさほど強いわけではない。
愛する者々を護りたいという念の強さ故、五郎やおそらくは中の人間達の力をも取り込んで、強靱な結界を形成する。

更に昇る。
冷気に包まれる。雪雲の中に入ったらしい。
大怪百済の中に切り込んだ時の龍であったなら、雲の中に散じてしまった高度だ。
だが、龍の体内にできた「核」はまだまだ余裕があると告げていた。

須磨の海が動いている。ああ、浅海の神霊が京にやってくるな。

龍太子様!

誰かが、龍を呼ばわった。

お戻りにございますか?

やはり、覚醒していたのか、と確信した。
身体の中にできた「核」がその証左であったのだ。ならば戻らなければならない。

今すぐ戻らなければならぬか? せめて、別れを告げてきたいのだが。


龍はふっと力を抜いた。彼は龍の姿に変じ、急降下していった。


須磨の神霊は上空を見上げた。顔が歓喜に綻ぶ。
「150年の空白が終わる」
龍王が自分の目の前に降り立つことは分かっていた。
150年ぶりの龍王に、最初にまみえる神霊が俺か……浅海の神霊は慌てて着衣を整えた。

思った通り、龍王は柔らかく大地に降り立った。
人間体に戻ると、見慣れた龍だ。だが、とても人間には見えなかった。
浅海の神霊は片膝を付き、恭順の意を示した。
「友達、だよな?」
龍が傍らに屈み込むと、浅海の神霊は方向を変え、深く礼をした。
「……そうか」
「もし……」
「は?」
「もし、龍太子様がお望みなら、ここでは今まで通り。神霊の世界でのみ礼を尽くすことに致しますが?」
「賛成」
龍は白い歯を見せた。浅海の神霊も顔を上げた。

「白拍子の君を迎えに戻られたのですか?」
「いや。俺は誰も連れて行かない。ただ、あの鬼達に別れを告げて、人間から記憶を抜く。特に、風綬は俺がいなくなったら、ありとあらゆるものにつけ狙われそうだから、通力を作り出す機構を破壊していくつもりだよ」
「そんなことが……できるのですか?」
「ははは……」


その頃、淳良は「たはむれの会」の面々と共にいた。
「百済殿がそんなことを言ったんですか?」
小埜君は信じられない、という口調だ。
「まだ先の話なんですけど。妹が大人になったと認めなければならない、って泣いてました」
「妹さん、おいくつ?」
「21」
算博士も、小埜君も「百済殿はばかだ」と思った。
「でも、気が付いたら、死んで1年以上経ってたらしくて……。以前は鬼になるつもりだったから気にしなかったらしいのですけど、1年以上経つといつお迎えに来て貰えるか分からないそうです」
算博士も、小埜君も「百済殿はやっぱりばかだ」と思った。

「死霊ホイホイ初号(改良型)」の中の絵巻達も同様のことを嘆いたらしい。
「大人しく成仏すればよいものを……」
算博士が盛大に溜息を吐いた。
「死んで2〜3年して気が付くんだそうです」
算博士も、小埜君も「死霊というものはどうしようもないばかだ」と思った。

「一人では無理でも、みんな纏めて何とかなるかも……」
学生がぽつりと言った。
「それだ!」


小埜君はヘタに動かない方が良いので、百済が結界騎手を着て手伝いに来ることを勝手に決めた。
「死霊補完計画」が始動した。


浅海の神霊を伴ってきた龍は、結界の前で立ち止まった。
すぐに摂津が出てくるはずだ。
果たして、結界に触れたものを確かめにやってきた摂津は絶句して立ち竦んだ。
「俺は龍だよ」
「………」
「摂津。入れてくれ」
彼女は石段を舞い降りてきて、2柱の神霊に手をさしのべた。

並んだ龍と摂津を交互に見て、浅海の神霊はニヤニヤした。
何度か頷き、目を細めている。
浅海の神霊の視線が恥ずかしかったのか、摂津は「親王と風綬に報告するから」とすぐに引っ込んでしまった。
「鬼とは言っても、優しく美しい。及ばずながら、龍太子様にお味方致しますぞ」
龍は何を言われているのか分からなかった。

摂津から報告を受けた威尊親王は激しく動揺した。
もとより龍の覚醒に興味はない。
自分が生きているうちにそのようなことがあれば、摂津を龍に託したいと思ってはいた。
だが、正直なところ、心の準備はなかった。
まだ摂津を手放したくないのが本心だ。

「風綬に申しつけろ。今宵は無理だ……明日…ならどうだ?」
「親王様……まだ……」
「うん?」
「何も考えられませぬ」
「……そうか」

事態を正確に把握していない風綬と淳良は無邪気に喜んでいた。
2人とも龍の様子を確かめに行き、その場で感想を言い合っている。
「龍って覚醒すると、本当に龍なんだね。蛇の雰囲気が強くて、今一つ龍ってのが信じられなかったんだ」
「こんなに偉そうになるのか。野生動物を育てていて、森へ返す時は、こんな気分だろうな」
人間の言うことだから、と失礼な物言いにも、浅海の神霊が聞きとがめることもなかった。


龍は淳良に足蹴にして起こされた。
「…っ痛!」
「龍、龍、結界騎手着て、すぐに小埜君のところに行ってくれ」
「……?」
「小埜君も結界騎手着てるから、平気だ。百済も時々くしゃみするくらいで済んでる。龍の助けが必要なんだ」
「……うん」
「早く起きろって!」
淳良に思い切り蹴飛ばされ、龍は仕方なく起きあがった。

なかなか寝つけなかった。
背中に温かさを感じた。
人間が好きだと思う。
人間の感じ方がだんだんわかるようになってしまった。
昇天する時が来たら、人間や鬼達から自分の記憶を奪って、もうどこで会っても分からなくなってしまうのだ。
そうすることが最も合理的なのに、胸がきりきり痛む。

龍は走り、淳良は「走るんです」で併走する。
「親王様が、世のため、人のための発明をしろって言ったことがあった、覚えているか?」
「覚えてるよ。小埜君と学生がきっぱりと拒絶していたな」

算博士にはそれがズシリと堪えたのだという。
彼の研究のはじまりは「世のため、人のため」だった。
いつの間にか忘れ、小埜君や百済との「楽しい発明の競い合い」に没頭してしまった。

椿と扇

「でも、百済だけじゃなくて、ついうっかりと成仏できなかった死霊がぞろぞろいて、鬼にも成れずに彷徨ってるでしょう。鬼と言っても、摂津みたいなのもいるしね。小埜君の留守に京になだれ込んできた連中みたいなのばかりじゃない。だから、死霊を助けてやろうと、みんなで装置を作ったんだよ。百済もずっと来てるよ。一昨日、やっと優衣君に本当のことを言えたんだ。優衣君、分かってたみたいで、泣いてたけど……百済が成仏できそうなのが嬉しいって……優しいよなあ」

龍は淳良の説明を黙って聞いていたが、
「おい、鬼だって人の霊なんだ。その装置で摂津と五郎さんも助けられるか?」
そればかりが気になった。
「だから、これから、そこのところを龍に見てもらうんじゃないか」
「よっしゃ! それなら、早く行こうぜ!」
龍は「走るんです」の後方に回り込むと、押して走り出した。
「ぎゃあぁぁぁぁぁーーーーー!」
京に淳良の悲鳴が響き渡った。

死霊一人だと「お迎え」に気が付いて貰えない。
どうやら1年を過ぎると、「お迎え」の名簿から名前が削除されてしまうらしい。
そこで、死霊を集めて、装置で死霊の気を増幅しようというわけだ。
盛大な「のろし」とも言うべき装置である。
「効率よく気を集められるかという問題と、増幅の度合いがどうかということで悩んでいる。俺以外は死んでから相当経っているしな」
百済が手早く説明した。
「人間っていろんなことを考えつくんだな」
龍はひたすら感心している。
「で、どうなんですか? 百済殿と古い死霊が6人、これで気がつかれるほどの力が出ますか?」
目に下の隈が濃い算博士が静かに聞いた。
「足りなければ、死霊ホイホイ弐号(強力型)を急遽作りますけど」
小埜君はやや興奮気味である。彼女とて、結界騎手の下はやつれた顔なのだろうが。
「摂津と五郎さんを加えてください」
龍の提案は百済には些か奇異であった。
「摂津を連れて行かないのか?」
「……摂津のことは凄く好きだ。大事に思ってる。でも、彼女は人間なんだ。どんなに突っ張ったことを言ってみせても、彼女ほど人間であり続けた霊はいないと思う。だから、人間として在るべき世界に往生させてやりたいんだ。誰に対しても同じだよ」
「……おまえが淋しかろうに……」
「百済だって、好きだ」
「よせ。気色の悪い」
「あ、そんなこと言うと、誘導してやらないぞ」
「誘導?」
全員がぽっかりと口を開けた。
「そう。この巨大なのろしを、人間の天界の近くまで誘導してやるよ。それならいくら何でも、気が付くはずだ。だから、壊れたりしないように作ってくれよ」
実験はできない、いきなり本番なのだから。


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