「2・無邪鬼な龍」


返す返すも失敗であった。
しかし、これで最後だ。
高見王は武蔵国境まで来た時に、改めて馬上の芝淳良(しばあつよし)を見やった。
芝淳良は早めの元服を済ませたばかりで、顔立ちも仕草もまだ幼かった。
この少年は、高見王が任地に伴ってきた妻、小埜君(おののきみ)のお気に入りである。

小埜君は才弾ける典薬として後宮に仕えていた女だ。
彼女が里下がりをした折などに、言い寄る男も多かった。
高見王もその中の平凡な一人であったが、彼女は迷わず王を選んだ。
「あなた様は興深い御運を持っておられます」
というのが、その理由だった。
訳の分からぬまま、彼女を正妻とし、婿に入った。
程なく、武蔵国守に任じられた。正妻の強い勧めで彼女を伴って下向した。

武蔵国の風情に、小埜君はすぐに馴染んだ。
まるで、水を得た魚である。
都のしきたりなどを教えはしたものの、当の本人はこっそり車を出させ、野山を駆けめぐった。
この時案内役になったのが、芝四郎(淳良)である。

ある夏などは、下働き女のような袖無しの着物を着て、堂々と素顔を晒して野歩きを楽しんだ。
権守の正妻が姿ばかりを変えてみても、その様子がまるきり下女のそれではないのだから、誰の目にも彼女の無軌道ぶりは明らかであった。
もみ消しにどれほど苦労したことか。

叱っても叱っても、妻は上機嫌で、
「ほんに面白い国でございます。あなた様のお陰と感謝しております」
と笑顔を向けた。
小埜君のもともとの性分が京では押さえられていたのだと、気が付いた時は遅かった。
しかも、芝四郎はその性分を更に煽り立てる役目を果たしたのである。
四郎に関しては、彼の両親にとっても頭痛の種であった。
弓馬の道をあまり好まぬ童で、これでは荒くれた者共が納得するとも思えなかった。

もともと上京させることは決めてあったのだ。
そこで、高見王の帰京に合わせ、四郎を早めの元服によって「淳良」と為し、家人として引き受けて欲しいと頼み込んだ。
高見王は淳良の兄、三郎淳正も彼の家人とすることを条件に快く承諾した。


こうして、芝淳良は武蔵を厄介払いされた。淳良本人は、いずれ京で何らかの職と位を得て故郷に帰るのだと、希望に燃えていた。

京に戻ってすぐ、小埜君は夫の出世を祈願すると言って、石山寺に籠もりに行ってしまった。

淳良は毎日高見王の伴をした。
昼も夜も弓矢を持ち、王に侍っていた。
王は任地へ赴く前に付き合っていた女達の消息を訪ねるのに、案外忙しかったのである。

淳良自身は気に入った女をみつけようという努力を一切していない。
「何か面白いことが起こる」という予感がある。
こうした予感は幼い頃から外れたことはなかった。

王が武蔵に行っている間に、別の男を招じ入れた女が多かったが、待っていた女もあった。
その女と旧交を温め、帰路につく。
途中で、王がかつて文を交わしただけで終わった女を思いだした。
東の空が白み始めるまでいくらもないだろうに、王は寄り道を命じた。

目的の邸の前についた時、男達の悲鳴が聞こえ、卑しげな者共が転げそうに走ってきた。

その後を追って出てきたのは、燃え立つ炎のような赤い髪の男である。
さながら、鬼。

車の中からのぞき見た王は「ぎゃあっ!」と叫んだきり、静かになった。
家人としては主人を介抱するのが筋であろうが、淳良は赤髪の男を追っていた。

関東の山野を駆けめぐっていた淳良であったが、たちまち息が上がった。
赤髪の男は飛ぶように走っている。間もなく、彼は下手人共を追いつめた。

下手人は必死で命乞いをするのだが、男には何も聞こえていないようだ。
男は下手人の方に掌を向けた。
次の瞬間、彼らの髷は千切れて地に落ちた。
ある者は気を失い、ある者は失禁した。

男は頷くと、野次馬、淳良の方に向き直った。
厳しい表情が和らいだかと思うと、手招いた。
不思議なことに、男の髪は枯色をしていた。
赤と見たのは、薄闇の中の淳良の見間違いであったか。
「不味そうだが、この際、仕方あるまい」
枯色の髪の男は確かにそう呟いた。

さすがの淳良も総毛立った。
さては食人鬼であったのか。
逃げようにも足は動かず、叫ぼうにも喉からは虚しくヒューヒューと空音が出るばかり。
「ひぃっ! 南無八幡大菩薩!」
声は出ないが、淳良は泣きながら仏の加護を求めた。

男の手が首筋に伸びてきた。
「生身の人間?」
男は突然素っ頓狂な声を上げた。
途端に淳良は尻餅を付いた。
「生憎だが、これでは食えん。やれやれ、厄介な」

男は淳良を担ぐとしばらく歩いた。
腰が抜けたままの淳良を草むらに下ろした。
一匹の蛇が淳良の着物の裾から中に入り込んだ。
脚の裏側から、腹や胸を這い上がって、襟元から飛び出してきた。
蛇は男の胸の辺りに張り付き、すぐさまどさりと音を立てて落ちた。
「やはり、不味い。酷いえぐみだ。鬼も食わんぞ。……せいぜい、非常食だな」

男の髪色がみるみる枯色から檜皮色に変化した。
「おまえの記憶は消しても無駄だろうな。すぐに思い出してしまうだろう」
男は満足げに笑った。
歯の根が合わぬほど震えていた淳良だが、男がこれ以上何もする気がないことが分かると怒りがこみ上げてきた。
「ま……不味い? 非常食とは何ぞ?」
「おまえの通力だ。不味いが、強い。まさか、生身だとは思わなかった。……今日はごちそうになった」
言いたいことを言って、男はかき消えた。

漸くの思いで屋敷に帰ったところ、主人はまだ気を失っていた。
仲間の言うには、あの一団は火付け強盗の一味であったらしい。
淳良が強盗を追ったのは、「さすがに関東の猛者、芝三郎淳正が弟だ」ということになったらしい。

翌日、淳良は不思議な男にあった家に使いに出された。

足も気も重い。

門の前で馬に乗った若い男に会った。
高見王の使いであることを告げると、若者は下馬した。
「御文を受け取るわけにはいきません。姉も困ると思います」
若者は硬い表情で言った。
「恋文ではありません。災害見舞いです」
文をそのまま持ち帰るわけにはいかない。
淳良も食い下がった。
若者は「災害」という言葉に反応し、眉根を寄せた。
「何の災害だと言うのです?」
「火付け強盗と鬼」
淳良が答えると、
「鬼じゃない、龍だ」
檜皮色の髪の男が忽然と現れた。
「ぎゃあっ!」
今度こそ淳良は意識を失った。


「不味い、ということは、おまえはこの童を喰らったのか?」
「い、いや……直接じゃなく使い蛇を使ったから……ちょっと貰っただけだ」
「それで、食ったんだな」
「ぶっ倒れそうに腹が減って」
「見境無しか」
「何だと。そもそも俺がいたから無事だったんじゃないか」
「無事なもんか!おまえの姿を見て母上が腰を抜かした。姉上が流産でもなさったら、どうしてくれるんだ」
「チッ……おまえの姉上の方に通力があれば良かったのに。はっきり言うが、おまえより令子どのの方がよっぽど度胸が据わっておる」
「話を逸らすな。あんな田舎小僧に手を出した見境無しのくせに。何て意地汚い男だ」
「仕方なかろう。おまえが弱いんだ」
「その俺を選んだのはおまえだろうが!」
「……味はおまえが一番。あの小僧じゃ非常食だ」
「誤魔化されんぞ」
「風綬。どうでもいいが、非常食が起きた」

淳良には話の内容はよく分からない。
しかし、あの「龍」がただの人間相手にたじたじになっている。
淳良はもう恐怖を忘れた。
「面白い! 俺も関わりになりたい」


数日後、威尊親王が火付け強盗を追いかけた猛者に興味を示した。
淳良は、若くして隠居状態に置かれている親王に、謁見を許された。


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