「6・優衣君」


威尊親王が、淳良ではなく風綬に使いを命じるのは、珍しいことであった。

使い先は暁人皇子といい、親王の異母弟の一人である。
威尊親王と違い、この人は卑腹(女蔵人であった)の所生であるゆえ、親王宣下を受けていない。
本来なら親王にとっては縁遠い皇子であるのに、なぜか文の往復はある。

親王が廃太子にならなければ、あるいは、最初から女御所生の第一皇子などでなければ、よくあることとして受け止められたのだろう。
彼の境遇では何もかもが
「前右大臣様と女御様さえおはしましたら」
となってしまう。
乳母はほぼ毎日嘆いていた。
父院の命令で寺に預けられる身となったが、ここでは親王の目の前で悲嘆の涙に暮れる者がいないことが救いであった。

人外の者共と庶人とでは、親王の身の上など想像の仕様もないだろう。
その上、白拍子風情で自分を嫌った「摂津」以上の摂津が側にいる。
親王の中で、恨みの心は急速にしぼんだ。

文の往復はあるものの、暁人皇子には何か割り切れぬ気持ちを抱いていた。
が、今回は自分でも驚くほど、正直に依頼文を書いたのだ。


風綬は、皇族へのお使いということもあり、縹の袍を身につけていた。
龍が従者代わりを勤めるというので、「それなりの装束をしろ」と言ってやった。
何を着てくるのだろうと待っていたが、緋の袍を着てきた。
風綬はすぐさま下馬した。
もう少しで平伏するところであった。
条件反射である。
「俺が悪かった。龍、いつもの変装に戻れ……おまえはいつものままでいいから……」

相手が龍だと分かっていても、身体が言うことを聞かない。
最後は声が裏返った。


暁人皇子がいよいよ臣籍に下る。
その前に蹴鞠の会を催すのだった。
無位無官の淳良だが、威尊親王の代わりとして蹴ることになった。
親王の伴である3人の人外の者に恐れを為して、このあたりの小さな霊の類はひっそりとしている。
やがて彼らにおもねるように、淳良の味方をはじめた。

暁人皇子や居並ぶ殿上人達は、口々に淳良を褒め、召し抱えている親王を羨んだ。


椿餅を賜ったのは、勿論のこと淳良である。
道々風綬に自慢する。他に自慢する相手がいないからだ。
「椿餅」と聞き、龍と摂津は腹を抱えて笑っている。
「何ぞ?」
親王には意味が分からないので苛々し始めた。五郎は懸命に堪えている。
「大きな椿の葉だ。いや、餅が小さいのか。米粒ほどだな、龍?」
尚も笑い転げながら、摂津が龍をからかおうとした。龍は真顔になり、
「米粒とは何だ。小豆くらいだぞ、餅は」
と言い返した。

今まで我慢していた五郎は「ぶぅっ!」と噴き出した。
親王は遂に怒り出した。
「不味い」と言われる淳良と「弱い」と言われる風綬は憮然としている。

案の定、淳良は「椿餅を優衣君に差し上げたい」と言い出した。
五郎から「伴を勤めましょう」と申し出、親王達は先に帰ることにした。
「料紙はこれを使え」と親王が渡していったのは、萌葱色に銀の砂子を散らしてあった。

「あなたに差し上げたい一心で鞠を蹴りました。神も私に味方をしてくれたようです」
優衣君は久しぶりの甘い物を無邪気に喜んでいたが、尼君は料紙の染めや焚きしめた香を値踏みしている。
「やっぱり私の勘に間違いはなかった」
尼君は満足げに頷いた。

尼君が在家のまま、この邸で暮らすのは一重に年若い姪の姫のためである。
この家の経済力では、婿を取るのもまま為らず、かといって、数多ある愛人の中の一人になるのは優衣君本人が嫌っていた。
ならば、女房として出仕させるのが、最良と思われた。
姫の父親が亡くなり、兄が「変わり者」では宮中の女官とするつてはない。
そこで、主家筋の姫の女房として勤めるよりないが、優衣君に相応な身分の男性にその存在を知らせることはできる。
ところが、たまにふらっと帰ってきては、優衣君や尼君に着物やら米やらを置いていく永真(ながざね)が頑強に反対した。

「百済永真は変わり者だが、妹君はうつくしき娘だ。優しく、明るく、気が強すぎず弱すぎず、これといった欠点もない」
とまずまずの評判を得ているというのに、後見のない身ではひっそり落ちぶれるより他はなくなる。

こうしてほとほと困り切っていたところに、かの板東の若武者が現れたのだ。
本人は無位無官だが、あの時一緒にいた貴人はただ者ではない。
立派な様子といい、馥郁たる香といい、尼君にはどこかで覚えがある。
尼君が女御に仕えていたのは、かれこれ10年以上昔のことだが、そこで確かに似た人を見たような気がする。
覚えてはいないが、尼君の勘に間違いはあるまい。

これを逃す手はない、と尼君は毎日姪に言い聞かせた。
気のあるような、無いような素振りでひっぱれ。ただ、引っ張りすぎてもいけない。
優衣君がその気になりそうなら、相手が出世する前に婿に入れよ。
出世した男を迎え入れるほどの経済力はない。

尼君が夢想している間に、優衣君は
「今日は二つも良い知らせがありました。あなたが訪ねてくださったことと、あなたがお褒めの言葉を賜ったことです。私も神々に感謝致します」
と返歌を書いていた。
尼君は首を振り、
「そんなにあっさりした返歌なら、こちらの強く香る方をお使いなさい」
と華やかな紙を薦めた。
「尼様なのに、世俗的すぎますよ」
優衣君ははにかんだ笑みを洩らしたが、伯母の薦めに従った。

帰って間もなく、五郎が龍を呼びに来た。
「話があります」
とだけ言うのだ。
風綬がすかさず不審げな目を向けた。
「話だけだから待っていてくれ、な?」
龍が取りなそうとしたのだが、
「俺には関係ないんだろう?」
素っ気ない返事が返ってきた。

石段の下まで連れて行かれた。摂津は既に待っていた。
「鬼の管轄ではあるが、そなたにも言っておこうと思って」

「死霊の気配? その娘が?」
「いや。文からは何も感じなかった」
摂津は淳良に近付いて、突然文を取り上げ、「ふっ」と微笑して返したのだそうだ。
五郎は気の毒がっていたが、龍はあまり気に留めていない。
「使用人の中に紛れているということかな?」
「いいえ。使用人は全員里に帰らせてある様子です。勿論取り次いでくれる尼君でもない。ただ、確かに死霊の気配を感じました。それもかなり強いものです」
「厄介だな。龍、死霊は鬼よりもある意味怖い存在ぞ。なりふり構わぬ、っていうのか、自分自身の思いが強いから。特にそなたの餌など、巻き添えで喰われてしまいそうだ。くれぐれも淳良と2人きりにするなよ」
「死霊の狙いは淳良、か」
「はっきりしませんが……」


尼君と優衣君は、今後のことはともかく、人が訪ねてくるのは嬉しいことだと話し合っていた。
話題は淳良のこと、及び淳良の主人のことになった。

御簾が勢いよく跳ね上げられ、几帳も押されて、優衣君が眺めていた文が突然取り上げられた。
「兄上……!」
「永真殿!何てことをなさるの」
尼君は文を奪い返し、几帳を戻した。
永真は、文と門の外とに異様な気配を感じ取った。
「この男は止めろ」
「また、そのようなことを?」
「今度こそは永真殿にも口出しさせませんよ」
兄妹の口論を伯母が引き受けた。
「優衣君もいつまでも子どもではないのですからね。このままでは花の時期を逃してしまう」
「今度こそ危険だから言っている。その文も門の外の気配も妖しい」
「馬鹿なことを。何もすぐに婿に迎えようというんじゃないんだから、屁理屈はやめて頂戴! 見てごらんなさいよ、その高貴な料紙。……ま、手は少々幼いようだけど。でも、却ってそれで良いの。関東ではこちらよりも第一の妻の地位が重いというじゃないの」
「関東? そんな異国の男の文を優衣君に取り次いだのですか。何と恐ろしいことを」
それならどういう殿方なら良いというのだ?
尼君はこのことについては話し合いにならないことを知っていたから、
「それよりも、永真殿、私はおまえの方が心配だよ。あれらの着物や米や菜なども、どこから手に入れてくるの?」
話題を変えた。
「それをお話しする必要はない」
尼君や優衣君がその質問をする度に、永真は眉間に皺を寄せ、むっつりと黙り込んでしまうのだった。


風綬は黙々と写経をしている。
本来は威尊親王の修行である。
いつだったか、どうしても摂津を伴って遠出をしたかった親王が、風綬に押しつけたのである。
「こういう細かい仕事は木っ端役人が巧いんだ。それにそちは写経向きの名前をしておる」
こうして遠出したものの、摂津の行くところ必ず五郎が影のように付き従うので、今一つ羽目を外せなかった。だが、翌日やってきた僧が、写経の具合を見ながら、
「ようなさいました」
と褒めた。大変に落ち着いた様子だというのである。
すっかり気をよくした親王は、写経を風綬の仕事に加えてしまった。
2度の食事の手配や調度の手入れなどの指示も、風綬の仕事である。
姉よりも家刀自の才能があるのではないかと思う。

その夜は淳良の伴に龍が名乗りを上げた。
「風綬が相手してくれなくてつまらん」

年若い淳良は、親王が貸してくれた横笛を握りしめた。
「もっとお近くで合奏をしたい」とダメで元々、頼んでみよう。
御簾越しにお話しできないだろうか。
せめて濡縁に。声を聞きたい。

頭の中で、いろいろと思いを巡らしている淳良を見て、龍は微笑んだ。
風綬の成長を見守っていた頃を思い出すのだ。

いつものように尼君が出てきてくれた。「さあ、思い切って申し出よう」と思った瞬間、尼君の背後から黒い影のようなモノが現れた。
淳良が馬から引きずり下ろされ、それが担いで連れ去った。
この影の力を龍は知らない。
「これが死霊か」と慌てて追いかけた。


突然、風綬は漠然とした不安を感じた。
「龍!」
摂津と五郎が顔を見合わせた。
「どうした?」
親王が怪訝そうな表情を見せる。
「怨念に戸惑っておるな。五郎、先に行って加勢してやれ。親王、ここで待っていてください。結界は張ってあります、心配は要らない」
「俺も……」
「おまえはここに残っていなさい」
「おまえに指図される謂われは無いが?」
「ただの人間に来られても、足手纏いだ」
「龍のことだから、いかねばならないだろう」
摂津は冷笑した。
「行かせてやれ!」
親王が怒鳴りつけた。


龍とも違う、摂津や五郎とも違う、背筋が凍りそうな感覚に淳良も戸惑っていた。
直裁的な殺意にも戸惑うばかりだが、焦らないのが自分でも不思議だった。
龍が追ってきてくれているのだから、助かるはず。
影はしばらく走って止まった。

淳良がぐるりと首を回してみると、池の水が渦巻いて立ち上がっていた。
影は淳良を下ろし、人の形を取った。
「何者だ? 何ゆえ俺の邪魔をするのか?」
影の男が陰鬱な声を響かせた。
「その若者を返せ。話はそれからだ」
龍の全く知らない力なので、どう応じて良いのか分からない。
大事な非常食なのだが、それ以上に取り返したい衝動を覚えている。

五郎はひたすら走り続けていた。
優衣君の邸に行くと、門の脇に尼君が倒れていた。
そっと中に運び、濡縁に横たえると門外に目を凝らした。
微かに気の流れが見える。


目を凝らし、耳を澄ませば、龍がどこにいるか分かる、気がする。
摂津は訝しげに風綬を見つめた。
急速に近付いてくる気配を、何故こんなに察することができるのか分からぬまま、風綬は進んでいった。
摂津も目を瞑り、龍の独特な気を感じ取ろうとした。

近付いてくる!
「風綬、我の後ろに。前に出るな」
庇おうとしたのだが、風綬は馬の歩みを早めてしまった。


死霊は淳良を連れている。
龍が追ってきている。
五郎は南側から近付いている。

武蔵から出てきた少年に、京の人間が恨みを持つとは考えにくい。
恨みを晴らすことではなく、死霊として人を殺し鬼と化すことが目的だと思い当たる。
「風綬、戻れ、人間のくせに!」
摂津が叫んだ。

「風綬!」
龍は、髪を一房切って前方に投げつけた。
それは死霊を塞ぐ形で炎になった。
軽々と飛び越し、風綬を抱いたまま龍が跳んだ。
炎が作り出した上昇気流に乗った。
荒々しくぶつかってくる風に、風綬は思わず目を瞑った。
「降りる時の方が通力を使うんだ。後で補給を頼む」
こんな非常事態に何を言い出すんだ、と怒る気にもならない。
自分を袖の中に抱き包んでいることは十分分かっている。

龍は腕の中の人間を見つめた。
目を閉じ、息を詰めて、風圧に耐えている、大事な贄。
ただの人間に来られては足手纏いだ。
それなのに、湧き上がってくるこの歓びは何だろう?

いつまでも風綬を見ていられない。
龍は着地点を探し、摂津の背後に狙いを定めた。
「摂津、結界を頼む」
「仕方がない坊やだね」

龍一人なら地に叩かれてもどうということもないが、さすがに生身の人間を抱いていてはそうもいくまい。
龍は安全に着地するだけで精一杯だ。

淳良が人質となっているために、圧倒的な力を持っているはずの龍達が手も足も出ないでいる。
「分かった。このまま睨み合っていては朝が来る。神霊や鬼は平気だけど、そなたは困るのではないか? ただ、人間の方が参ってしまう、そなたの言い分を聞いてやっても良い」
鬼に挟み撃ちにされた格好の死霊は、この提案を受け入れた。

「俺は百済永真だ」
「優衣君の兄上……?」
淳良の言葉に人外の者達も風綬も驚いて死霊をみつめた。
「話は長くなりそうだ。……死霊まで連れ帰ったら、親王様、怒るかな?」
龍が提案した。
「やめて! お寺に死霊? 冗談でしょ? ゾッとする」
人の信仰を大切にする鬼達が反対を唱えた。
「石段の近くに祠がありました。あれを借りましょう」
五郎はどうやら主人に成り代わって、地祇達と近所付き合いをしていたらしい。代案が早かった。

死霊の百済永真はあまり自分の素性を話したくない様子だ。
人間達は浅倉殿に戻らせた。
「氷襲」の龍は小蛇になって風綬の懐に入って一緒に帰った。
摂津も
「五郎の方が話しやすいようだな」
と言って帰ってしまった。
五郎は夕刻になって漸く戻った。
報告によると、永真は妹の優衣君の行く末が最も気懸かりであるので、日中でも見守れる鬼になりたいのだという。
報告しながらも、五郎の目の下の隈がますます色濃くなった。

威尊親王としても頭を抱えた。
「出家したら、まわりはバケモノだらけ、何と因果なことだ!」

風綬は控えながらも、「淳良はともかく、俺はバケモノじゃない」と頭の中で呟いていた。その淳良は少々気懸かりが生じたらしい。
「百済が鬼になったら、通力があるのは俺しか残ってないな?」
「何を言いたい?」
「つまり。親王様は摂津、風綬は弱いくせに龍。で、五郎は摂津から分けて貰ってて俺には手出ししない。不味い、不味い、と言われてて何だか傷付くんだ。でも、百済が鬼になったら、他にいないんだから、俺ってことになるね?」
「………」
風綬は呆れて言葉を失った。何も知らないというのは、幸せだ。
「淳良の提案、良いかもね」
摂津が何かを思いついたらしく、龍の方を見やった。
「2、3日後かな」
龍は檜皮色の髪を後ろで1つに束ねている。
「米粒大の橘が小豆大になったみたいだね、龍?」
「小豆大が栃の実大だ」

夕刻、祠の前に3人の人間を連れて行った。
「百済、鬼の食料は通力なんだよ。我が術で少しだけ試食させてやろう」
「試食?」
「そう。龍によると、5人しか見つかってないらしい。貴重だから、殺しちゃダメだ。では、まず、龍のお気に入りからね」
摂津は風綬の前に行き、手を伸ばした。
「!」
何をする? と叫ぶ間もなく、着物を通じて、胸に触れられた。
摂津は軽く握った手をそっと開いた。
桔梗の花に似ているだろうか? 小さな花がその手の中にあった。
「どうぞ。お試しあれ」
言われるままに、永真はそれを口に含んだ。
「甘い……甘酸っぱい」
親王の味は
「絡まるような旨さが……」
「醍醐味だよ。こくがあるでしょう? 龍はくどいって言うのだよ」
「くどいといわれればそうかもしれない」
だそうで、花はオニユリに似ていた。
最後に淳良から「試食用」をとってみると、山吹の花に似てはいたが、
「み……水をくれっ!不味い!苦い!」
永真の陰鬱な表情が壊れ、大騒ぎになった。
「よく味わいなさい。それしか残ってないんだから。どうしても嫌なら成仏を目指すしかない」
永真はものも言わずに祠に戻った。


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