小埜君は石山寺から出ると、越をまわって帰ると夫に知らせた。
あちこちの寺社を訪ねて、京に帰着したのは4月初旬のことだった。


「8・大道芸」


最初は龍だった。涙を流し、喉の痛みを訴えた。
翌日には摂津、更に半日遅れて五郎も涙が止まらなくなった。

「助けてくれ、風綬」
龍は、風綬の仕事が一段落したと見るや、自分たちの房まで引っ張っていった。
「俺にどうしろと……」
風綬は、みなまで言い終わらないうちに、龍の両手に顔を挟まれていた。
「!」
どうして俺はこんなにも弱いのだろう? 悲しく思いつつも、龍に抗う力は抜けていく。

「我にも分けて。甘いのだろう?」
「悪いが、摂津、この人間にあまり負担を掛けたくない」
「ちょっとだけでも貰えないだろうか? 親王様のお味では辛くて」
摂津も涙目で頼み込んだ。

目が痛い。
喉がひりつく。
鼻の奥がじんじんと鳴っている。
咳が止まらない。
龍も苦しさはよく承知している。

「風綬になるべく負担は掛けないようにすれば……」
風綬は「勝手なことを言うな」と言いたかった。
「俺もいいですか?」
五郎まで目をこすりながら聞く。
「少しはマシになる。この者にも……」
摂津が更に頼み込んだ。
龍も仕方なさそうに頷く。
「失礼つかまつる」
抵抗しなくてはならないのだが、心が萎縮していた。

普段はそれを意識しないが、いざ抵抗しようとすると、摂津も五郎も鬼であるという事実の前に力が抜ける。
圧倒的な力の差があるのだと、強く認識する。
龍が許可を出してしまったのだ、一人で逆らうことはできない。
贄でしかないのなら、「俺のものだ」と龍に所有を主張して欲しい。

五郎は頭を振って
「やっぱり遠慮しておきます」
と名残惜しそうに言った。
「もう少し欲しい」
「だめだ、風綬が震えてる」
龍が気が付いた。
「承知。……行こう。毒を以て毒を制してみよう」

摂津達が去ると、風綬は思いきり龍を突き飛ばした。
龍は不思議そうに見つめているだけだ。
風綬は瞳を潤ませている龍を見て、またもや力が抜けた。
人間には分からない何らかの刺激物の作用だろうとは分かっていた。
「……らせるな……」
風綬はごく低い声で伝えた。
「え?」
「俺に触らせるな」
「本当に苦しいんだ。おまえの通力を貰えばやや楽になる。……以前空腹の時に摂津に貰ったから、お互い様かと……」
「俺はおまえのものだろう? 他人に譲るな」
「いや、違う! それは、誤解だ。おまえはおまえだし、俺はおまえをどうこうしようとは思ったこともない」
「……理解できなくてもいいから、覚えておけ」
「?」
「おまえだけは仕方ないが、他の……神霊だの鬼だのに触らせるな。俺がなにも言わなくても、おまえが手出しをさせるな」
「そ……そうか……?」

一方、摂津が突然やってきたので、淳良は戸惑った。
「ちょっとだけ、おまえの通力を試させて、ね?」
そう言って肩に両腕をかけた。
「や、やめろっ!」
淳良は白拍子の華奢な身体を力任せに突き飛ばしていた。
「親王様に殺される!」
はっと我に返ると、摂津は床に尻餅を付いた姿勢のまま淳良を恨めしげに見つめている。

「申し訳ない! 痛かったか? 怪我は?」
怪我をさせても、親王に殺される。淳良は慌てて駆け寄った。
膝を付いて、具合を見ようとした淳良を強く抱き寄せ、摂津は淳良の通力を奪った。
「ううっ!」
今度は摂津が淳良を突き飛ばした。
「不味い……うう、予想以上に酷い……」
「御前、大丈夫ですか?」
涙目の五郎が駆け寄った。
突き飛ばされた淳良は、床に尻餅を付いた姿勢のまま、呆気にとられている。
と、その時、
「淳良殿! おまえの通力はよく効く! 何だか楽になった。おまえのは薬かも知れない」
摂津が叫んだので、五郎も淳の方に駆け寄った。
「ああ、楽になった!」
五郎も叫んだ。


龍の呻き声で目が覚めた。
昼間に摂津が淳良の通力は薬だと言っていた。
龍も楽になるのだろうか?
彼は苦しみから解放されるのだろうか?
淳良を舐めてきてもいいぞ、と言ってやろうと、顔を近付けた。

「………」
龍はうっすらと目を開けた。
「苦しいのか?」
「風綬がいるから、楽だよ」
「そうか」
「おまえは、眠れ」
言いそびれてしまった。

摂津は大騒ぎである。
淳良の「薬効」は夜中に切れてしまった。
親王の腕の中で、身を捩り、すすり泣きながら、
「淳良をここに呼んで」
と繰り返した。
淳良と何をしたのか、親王が詰問しても、摂津は涙を流して「淳良を呼べ」と懇願するばかりだ。
全く要を得ない。
親王は下穿きだけを素早く身につけ、御簾を払った。
そこには五郎が控えているはずだった。
「おらぬ……」
摂津は這い出してきて、親王の言うことを確かめた。
居るはずの従者は、影も形もなかった。
「淳良が何だというのだ?」
親王も苛々してきて怒鳴った。
「薬ですっ!」
摂津も怒鳴り返したが、一息吐き、
「淳良は薬だった……。あのとてつもない不味さのお陰で辛さを忘れる……」
五郎に置いて行かれたショックで、却って冷静になって説明した。
「鬼共に何が起こってるんだ?」
「からい。目も喉も直接辛子を付けられたように、辛くて苦しい」
泣き続けている摂津の瞼は「えもいわれぬ色香」を少々越えてきた。

「くっ!」
親王は舌打ちをした。
火急である、この際仕方がない、隠れて淳良を食されるよりはマシかも知れない。
「俺が止めろと命令したら、すぐに止めるんだぞ」
「分かってる……、お願い、早くして」
黒い単を羽織らせて、親王は摂津を抱き上げた。


翌日、己の刻、人外の3人は最早立ち上がることができなくなっていた。
時折痙攣を起こした。
いつも「痛い」だの「熱い」だのと大騒ぎする摂津も無言である。
五郎と、微かに小指の先だけ触れ合わせ、発作に身を任せている。
風綬は、親王の許しを得て、龍の傍らに居る。
握りしめた手を握り返す力すら無い龍は初めてだった。


門前に女車が着いていた。
小埜君である。
都に着いたので、夫の高見王が手配した。真っ直ぐ帰らずに、「方違え」と称して、芝淳良が仕える浅倉殿にやってきた。
親王に文が届けられた。
「不作法な旅姿なので、お伺いするわけには参りませんが、御前におります光栄に胸が震えます」

親王は大笑いだ。
真っ昼間に、人妻が、車の中で文を書いて寄越すとは。
何もかも逆ではないか。

そこで、親王は、枯野襲の料紙に仮名ばかりを使って、
「口さがない京の人の煩い噂も、やがては草のように枯れるでしょう。畏れずに会いにいらっしゃい」
と書いて、淳良に持たせた。

「四郎殿、お久しゅう」
小埜君は自ら声を掛けた。
今にも車から降りてきそうな勢いだったので、淳良は慌てて駆け寄り、文を差し入れた。
「早うに帰れと夫が煩いものですから、手短に言いますね。私、石山寺で素敵な思いつきをしましたの。
ね、気の澱んだところに、性(しょう)のないごく下等な霊やら怪やらがいるというじゃありませんか。
でね、そういうものを雛(人形)に付けて、物語の通りに動かしてみたら面白いだろうと思いません?
そう思ってからくりを作ってみたのですけど、何度試しても失敗ばかり。これでいいはずなのですけど。
でも、こんなものを持ち帰れば、夫に発明三昧だったことが知られてしまうでしょう?
また叱られますから、これはあなたに差し上げます。楽しく遊んでね」


夕刻になり、人外の3人は頭を押さえながら、起きあがった。
結局、風綬は薬を与えなかった。
龍が一息吐いたのを見て、とにかく優しくしようと思った。
2人で連れだって外に出ると、風綬が手を引こうとした。
少々目が痒い程度に快復した龍にその必要はなかったが、好意を受け取ることにした。

ところが、石段の上まで来ると、
「おい、摂津! 来てみろよ!」
龍が大声で鬼達を呼んだ。
呼ばれて出てきた鬼達は、龍に指し示された方向を見やって、目を見開いた。
3人とも口を半開きにしたまま突っ立っている。
風綬もキョロキョロと辺りを見渡したのだが、特に変わった様子は見られない。
「可哀相になあ……」
「うん。でも、結界の中でも同じだっただろうね……」
五郎は石段の下に降りていった。
「百済はどうなったでしょうか?」

祠に向かう途中で、龍が風綬に説明した。
この辺りの地祇などが、結界の外で死に絶え性(しょう)を失って、半分地に融け半分気に散じた状態になっているという。
見渡してみると、道に沿って被害が大きいらしい。
見えなくて良かった、と風綬は思った。

祠の中では百済が死んでいた。
百済の輪郭がぼやけているのは、風綬にも見えた。
「こんなことになるとはなあ。大人しく成仏すれば良かったのに」
龍は呟いた。
力が及ばなければ同じことになったであろう摂津と五郎は、これから少しずつ無に帰していく百済を見ていた。

と、摂津が何かを思いついた。
「ね、淳良の薬効を試してみよう」
五郎が一礼して淳良を呼びに行った。

淳良がやってきた時は、摂津は好奇心に満ちた表情になっていた。
感傷の欠片も感じられない。
「効き過ぎて鬼になられても困る。少量にしてみよう」
いつぞやのように、摂津が「試食用」を花に仮託し、百済の腹の辺りに埋めた。
しばらく経って、百済のこめかみがピクリと動いた。

「ギャ〜〜〜!!」

人外の3人は大笑いして帰っていった。
彼らには淳良はとりあえず必要ではなく、からかいの対象でしかなかったようだ。

「俺って、一体……何?」
淳良があまりにガッカリしているので、風綬はつい慰めてしまった。
「死んでいた死霊が生き返ったんだから、おまえの力の凄さは誇っていいんじゃないか……?」


小埜君から貰った装置を試してみたい。

翌日、淳良は五郎に伴を頼んで、朱雀大路までやってきた。
五郎は目を押さえた。
「何? どうした、五郎? まさか……」
「……すみませんが。ここより先は……」
「では、高見王のお屋敷にご挨拶だけしてから、市へ行ってみよう」
「その方向だけは勘弁してください」
五郎は必死の形相で懇願した。淳良も頷いた。
他の者なら意地悪をしてやりたい衝動に駆られることもあるのだが、この実直な男相手にそういう気は起きない。
「うん。それじゃ東市も無理だね? 本当はあらちの方が賑やかで何か居そうだけど」
「すみません」
「おまえの目が痛いということは、左京の方は壊滅状態?」
言われて、五郎も必死で目を凝らした。
「そのようです。……おそらくは風綬さんのお友達に付いていたという神霊も全滅でしょう」

だが、「神」や「魔」の生命力は並大抵ではない。
6月にもなると、巨木の蔭や奇石の下に地祇が宿っていた。
やがては、下等な霊の欠片や怪やらも復活し、寄る辺なく漂うようになった。


「あっ! おい、待て!待てったらー!」
6月末の夕刻、淳良の叫び声が聞こえた。

何かあったのか、と思う間もなく、何かが風綬の足元を走った。
黒い楕円形である。
楕円形は一瞬止まり、すばやく部屋の隅に走っていった。
「うわぁ! ゴキッ……ゴキッ……」
風綬は龍の腕を取って訴えた。
龍は何を騒いでいるのか、という顔をする。
「御器齧(ごきかぶり)だろう?」
「行った、そっち! そっち!」
風綬は龍の背後に回り、黒い楕円形が消えた方向に彼を押しやった。
「そのうち出ていくだろうに。おまえ、なぜ慌ててるのか?」
「早く追い出せっ!」
「一寸の虫に煩い奴だな」
龍はそちらの方向に歩いていき、几帳をどかした。
黒い楕円形がカサカサと這い出してきた。
「うわっ!」
昆虫が飛ぶのは当然なのだが、風綬は御器齧が心底苦手なので、飛行されただけで恐慌状態になってしまう。
黒いモノが着地したところに龍の手が被さった。
「ううっ!」
「今度は何だ?」
龍はウンザリしながらも聞いてやった。
「す、素手で掴むなあぁ」
風綬の方は半泣きである。
龍の軽蔑したような顔など知らない。
苦手なものは苦手だ。
誰が何と言おうと、御器齧は恐ろしい虫なのだ。
「よく見ろ」
龍がそれを持ったまま、風綬の眼前に突きだした。
「ギャーーーーッ!」
風綬は気を失いかけた。
「文鎮だ!」
「は……?」
確かに文鎮である。それも昼間には風綬が使用していた。
威尊親王のものではあるが、例によって風綬が写経の修行をしているので、この黒曜石製の文鎮は風綬が主に使用している。
「あの琵琶と同じ原理だ。だが、虫の性(しょう)を持っていて文鎮に付くとは、変だよなあ?」
文鎮だとは分かったが、風綬はどうしても目を背け、それから遠ざかろうとしている。
龍の講釈はどうでも良かった。

そこへ淳良が入ってきた。
「あの……それ、俺の、なんだけど。面白いだろう? 名前は御器文(ごきぶん)」
龍が「御器文」を淳良に渡す前に、風綬は淳良に詰問した。
「何をした?」
淳良はあくまでもにこやかである。
「小埜君から新しい玩具を頂いた。京に来てからは初めてだが、からくり作りの上手なお方なんだ」
龍の手の中で文鎮がカサカサと動いた。
そこに向かって、淳良の後ろを付いてきていた枕が飛びかかった。
文鎮にじゃれつく枕を見て、風綬はがっくりと膝を付いた。
「こっちの枕は何だ?」
「人に飼われていた犬だ。主人とはぐれたか、主人が死んだのかは分からないが、野良になれなくて死んでいたから、枕に付けてみた。可愛い?」


山門の下で、西市で、文鎮と枕のじゃれ合いの芸は評判を取った。
淳良としては、「動物」をもっと増やしたかったのだが、からくりは親王に取り上げられてしまった。
これは後に寺の管轄に移され、封印されてしまったのだという。


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