「9・悲願」


人の姿のまま、龍は川を上へ下へ自在に泳いでいた。
あまりに楽しそうな様子なので、摂津は我慢できなくなったらしい。
「よし」
着ていた物を脱ぎ捨てた。
走りかけて、振り向いた主人に
「いってらっしゃいませ」
と、五郎が声を掛けた。
主人は安心したように微笑むと、童女のように川へ向かっていった。

「暑い」と言って、生絹(すずし)に袴だけの姿で外出してきた摂津である。
行き交う人間といったら、今この辺りに住んでいる農民だけなのだが、薄絹から白い素肌が透けて見えて、五郎は内心ハラハラしていた。
いっそ陽光の下に晒されてしまえば、意外なほどに清々しい裸体である。
無邪気に裸身の龍が瞳を輝かせた。
「摂津、来るなら気を付けよ。流れが速い」
「それなら、手を貸せ」
お互いの裸身を見つめることもなく、2人は水遊びに興じている。
しぶきと歓声を上げ、あるいは水が冷たいと言っては抱き合い、あるいは突き飛ばした相手を指さして笑う。
五郎は2人の着物をきちんと畳み、彼らが飽きて「帰る」と言い出すのをじっと待っている。
身分を弁えていたし、何よりこの着物が何者かに持ち去られないよう予防せねばなるまい。

摂津と遊ぶうちに、龍は懐かしい感じを覚えた。
肌の匂いや艶やかな黒髪、なまめいた容貌でありながら、どこか清楚な雰囲気を知っているような気がする。
「摂津、おまえは……」
「何ぞ?」
摂津は微笑みを消した。
龍は慌てて、頭を振った。
「いや、少々気になって」
「何ぞ?」
「おまえ、昔は誰ぞを護る神ではなかったか?」
「は?」
摂津は笑み崩れた。
「我は鬼ぞ。鬼の元は死霊、なぜ神などと考えた?」
「神に仕える女、というのもある」
龍は尚も追い縋ったが、摂津は笑みを貼り付けたままで、はぐらかしてしまった。
「鬼は人としてはもうとうに死んだものだ。鬼ではなく、生身の人間のことでも考えておやり」

夕刻。
疲れて眠ってしまった摂津を、五郎が背負って帰った。
この日、人間達は寺の行事に参加していた。
人外の3人は遠慮したのである。

死霊は日中活動することができないので、大人しく祠の中で寝ているしかなかった。
優衣君が出仕しない日くらい様子を見に行きたいのだが、東へ向かうだけで、更に死にそうな気分になる。
鬼よりも死霊の方があの強烈な力には繊細らしい。
不本意ながら、淳良に様子を見てこいと頼むしかなかった。
淳良は
「兄上公認?」
とどうしようもないことを言う。張り倒したい。


優衣君は淳良には大変に打ち解けている。
いや、打ち解けすぎている。

宮中に出仕するようになってから、使用人も何人かを呼び戻し、庭の様子もこざっぱりとしてきた。
宮仕えに慣れてきた優衣君は、彼女の方から
「遊びに来てください」
という意味の文をくれた。
まさか、と期待はしたが、やはり「まさか」はあり得なかった。

このあたりは、死霊には致命的だが、鬼には何とかなるといった程度らしい。
五郎が伴を勤めてくれる。
屈強そうな伴が目鼻をぐずぐずさせながらやってくるので、戻ってきた使用人達もすぐに淳良を覚えてしまった。
今や、淳良は待たされることなく、濡縁まで案内される。
「今日はいらっしゃいます」とか「今日は尼君様がお相手をなさいます」とか、使用人達も心得たものだ。

訪問者が淳良であれば、優衣君も御簾のすぐ内側までやってきて、直接話をするのだった。
淳良を「安全な相手」と考えていることは明白だ。
一点曇りのない信頼を得てしまった淳良は、今さらどうしようもないのだった。

優衣君が聞くことは兄が真面目に勤めているかということだ。
尼君と優衣君の手前、百済は浅倉殿に仕えていることになっていた。
尼君は「ありがたい」と安心したのだが、優衣君は今一つ不安なようなのだ。

また、優衣君は宮中の苦労話も聞かせる。
優衣君は出家した威尊親王の口利きで出仕したことは知られているので、「法掌蔵」と呼ばれる。
しかし、昔車の中でうっかり上に着ていた唐衣を滑らせてしまい、外に見せ、その唐衣がちょっとした評判になったことなどを覚えている女房がいて、「あの方は不思議の優衣君ではないかしら」と言いふらされてもいる。
兄が持ってきた唐衣であったが、出所が分からないので、あまり評判になって欲しくないのだった。

后妃の女房達との仲は悪い。
正式の女官である優衣君は官職に相応しく従七位上に叙せられた。
だからこそ暮らし向きの目途も立ってきたのだ。
女房達にそうした給与体系はない。
こちらにそのつもりはなくても、「好奇の目で見られた。女房勤めを軽薄なものだと言ってバカにする」と嫌がられてしまう。
女同士のそうした軋轢を男に聞かせている、という意識は、優衣君の方には全くなさそうだ。


それでも、いつかは見向いてくれるのではないか、と大人しくしている。
そして、百済に様子を伝えてやると、妙な勘ぐりをされる。
そもそもこの男が宮仕えをせずに死んだのがいけないのではないか。
「そんなに気になるなら、成仏はすっぱり諦めて鬼になれ!」
「成仏はもとより望んでいない。ただ、不味い飯を食いたくないだけだ」

頭の中で何かが弾けた。
許せないと思った。
何てふざけた理由なんだ。
「こうなったら俺が鬼になる!」
淳良は高らかに宣言した。


淳良は高見王の正室、小埜君を訪ねて依頼しようと考えた。
生身の人間が鬼になろうという考えを実現させてくれる人物がいるとしたら、彼女をおいて他になかった。
淳良を諫めようとしてくれたのは風綬一人だった。
「バカな考えは止めろ。人外に関わるとロクでもないぞ。俺だって日夜寿命が縮む思いをしている」
「甘いだの、美味しいだのって言われてる奴はいいよな。おまえになんか俺の気持ちが分かるもんか」
御器文ちゃんが逃げ出して探していた時に、何やら見聞きしたことを言ってやると、風綬は真っ赤になり、
「俺はもう知らんっ! 勝手にしろ」
と言い捨てて行ってしまった。
「勝手にするよっ!」

親王や人外の者共は面白がっている。
百済に至っては、淳良に手前勝手な要求を出しているという自覚がないらしく、
「参考にしたい」
と言ってきた。
「あんたは死霊でしょ? 俺は生身から鬼になるんだから、参考になんかならないよッ!」

親王は怒っている淳良を「善は急げ、だ」と訳の分からないことを言って送り出した。
風綬を怒らせた上は、誰も止める者はいない。
摂津が
「見届けておいで」
と五郎に伴を命じた。
ところが、五郎は途中で
「ううっ!」
と呻いて膝を付き、滝のような涙と鼻水を流しながら、
「申し訳ございません、これ以上は進めません」
と申し出た。
「うん。仕方ない」
と淳良が答えた直後、五郎は立ち上がり、鬼の脚力を最大限に発揮した。

小埜君のところにはすぐに通された。
几帳を隔てただけで話ができる。
年齢は6つか7つくらいの差でしかないが、小埜君が常々
「芝四郎殿は私の子どものようなもの」
と言っているので、そのような扱いをされるのである。

「楽しく遊べましたか?」
「いいえ。それが……御器文ちゃんと犬枕クンを作ったところで取り上げられてしまいました」
「おやおや、親王様ったら。お気に召したのかな?」
「そうじゃないみたいです」
「……殿方にはもっと豪快な玩具が良いのかしらね? 近々作って差し上げましょう」
「……それよりも、鬼になりたい」
「あなたがですか? ふうん」
「理由を聞かないんですか?」
「ああ。そういえば、そうね。それで、理由は?」
「それがですねー。畿内に通力を持つ者は5人しかいなくて、貴重なその一人なのに、みんなが俺のことを不味いって言うんです。こうなったら、俺が自分で鬼になってやるっ!」
「それも面白いかも知れない。よし、薬を作ってみよう。今晩は泊まりなさい。おまえが熟睡したところで、研究してみましょう。秘策はあります。殿が女のところに渡られるのなら私が直接、そうでなければ信頼のおける者に協力をさせますから、安心して寝てらっしゃい」
「……はい……?」


翌朝、小埜君から丸薬を貰って、淳良は喜び勇んで浅倉殿に帰るつもりだった。
しかし、心とは裏腹に足が重く、思うとおりに身体が動かない。
「四郎。おまえを送るように仰せつかった」
滅多に会わなくなっていた正真正銘の猛者である兄が、淳良を小脇に抱えた。
「馬で送る。しっかり掴まっておれ。北の方からは、帰ったらすぐに薬を飲め、時間が経てば経つほど効きが悪くなる、との御伝言だ」
兄に答える声もない。
仕方なく三郎は背に弟を結わえ付け、馬を飛ばして行った。
律儀者の三郎淳正は浅倉殿に着くと、弟を風綬に引き渡し、そのまま帰ってしまった。

淳良は風綬に支えられながら、親王の前に帰着の報告をしに行った。
「ただいま、帰りました」
「で、どうだ? 鬼には成れるか?」
「鬼になります」
淳良は懐から丸薬を取りだした。
親王と風綬が見ている前でそれを飲み下した。
「こいつは面白い。風綬、龍と鬼とを呼んでまいれ」
風綬は慌てて一礼し、命令に従った。

一同が揃った時、淳良はもがき苦しんでいた。
このままでは親王にぶつかる、風綬は激しく暴れる淳良を取り押さえようとした。
五郎も風綬に協力せんとする。
龍と摂津は何が可笑しいのか、笑い転げていた。

苦しむ淳良は風綬も五郎も振り払った。
必死の形相で、最悪の事態、親王に怪我を負わせるかと思われた。
ガシッ!
あにはからんや、親王は足を出し、淳良の動きを封じた。
淳良は足蹴にされて痙攣していたが、ぴたりと鎮まり
「ああ、驚きだ! かほどにまっずうぅ〜い薬とは!」
ケロリと言う。

起きあがった淳良の目つきは険しい。
龍と闘った時の摂津、あるいは摂津を守ろうとする時の五郎を思わせた。
「気分はどうだ?」
「あまりの不味さに口が痺れてます。五郎、水を」
退室してから風綬をじっと見つめる目つきが妖しい。
何事かと危ぶんでいると、
「風綬は、本当に甘くて美味しそうだったんだ」
と感心している。
風綬は背筋に寒気を覚えた。
「風綬に手出しをしたら……」
龍が睨みつけた。
「丸飲みにしないで。やらないから。まだお腹空いてない」

その日は全く空腹を感じなかった。
翌日になると、人の食事は食べたいと思った。
だが、風綬を見ても、親王を見ても、特に食欲とは結びつかないのである。
自分に通力があるからか、人間の食事で満足してしまった。
鬼になったはずが、人間と何ら変わらないのだった。


やはり自分が鬼になっても意味がなかったらしい。
淳良はまた小埜君を訪ねた。
「どうしたら楽しくなれますか?」
淳良は溜息混じりに呟いた。
「楽しくなかったの? 食べられたかったの?」
「不味いって言われるのが口惜しい」
「そう。私の発明ではあまり役に立たないのですね。それなら、原始的な方法をとるしかないでしょう」
そこで小埜君が几帳の下から淳良に差し出して寄越したのは小刀であった。
「それで廃親王の心臓一突きにしておいで」
「それで人間に戻れるのですか?」
「いいえ。魔物にとって極上の食料がなくなって、非常食に手をつけなくちゃならなくなるのです」
どこまで行っても非常食らしい。
屈辱を感じるのだが、小埜君が「味の改善は不可能」だというのだからどうしようもない。

浅倉殿に帰り、小刀を見ると悲しくなってきた。
淳良の行動を面白がってばかりもいられないだろう。
そもそも「不味い、不味い」と言われて、淳良がここまで傷付いていたとは、人外の者共には思い及ばなかったのだ。
「淳良。おまえも我らにとって無くてはならない人間なんだよ」
摂津が優しく言った。
「そうだよ。おまえのこと、大事に思ってるぜ。俺達だけじゃない、風綬だってそうだよな?」
龍も続ける。
風綬も無言で頷いていた。
五郎が淳良の肩を軽く叩いた。
淳良の瞳から一筋涙がこぼれた。
彼は小埜君に言われたことを話し始めた。
話すうちに何となく元気が出てきた。
「……と言う訳。俺に刺せと仰る。こっちが返り討ちに遭っちゃうよ」
元気が出てきたは良いが、それを親王本人の前で話している。
人外の者ですら、ぎょっとした。
この場で斬殺されても文句は言えまい。
皆が見やれば、親王は無表情だ。
「乱暴者」の親王もこの若者を愛しているのだろう。

そこで、龍は重要なことに気が付いた。
淳良は、いや、人間には分かっていないようだ。
「……おまえは鬼になってないのだが……」
「……は?」
人間達は不審げに龍に視線を当てた。
「だから、鬼になってないって」
「……俺?」
淳良は自分を指差した。
五郎はゆっくりと頷いた。
摂津は後ろを向いて袖で口を隠している。
笑っているらしい。
「……え? ええ〜〜っっ!? 俺騙されたのーっ!?」
「いや……最初は雰囲気あったのだが、すぐに消えてしまったのだ。薬が効かなかったのではないか?」
「効かなかったと言うよりは、芝殿の中の何かに中和されたとみるべきでしょう」
五郎が静かに言い添えた。
「ところで、一つ訊いていい?」
今まで声を殺して笑っていたらしい摂津は、口の端を笑いの発作に少し引きつらせながら、何とかいつもの顔に戻って淳良に尋ねた。
「何?」
「ほら、こういった特殊な薬を作る人間が何も見返り求めずに応じるって、信じられない。何を代わりに差し出したの?」
「ああ、そんな事? 何って俺の通力を好きなだけ」
とうとう摂津は大爆笑した。
龍と五郎も同様であったが、ひとしきり笑うと気の毒げに淳良を見遣った。

小埜君は研究の為の好奇心になら代価を求めないらしい。
いや、依頼主さえ実験台に使う人間離れした人間と言うべきであろう。
彼女と引き比べれば、親王や淳良ですら「人間」のうちであるといえた。

元の着想は確かに淳良である。
ただ、小埜君がそれを「面白い」と考えた瞬間に全てが変わっていた。
淳良はただ小埜君の好奇心を満たすための道具だったのだ。
それも、その為に苦しんだ薬の元が他ならぬ彼自身の通力だったということは、黙っていた方がよいのかどうか、さしもの摂津も思い悩んでいた。


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